From PERISCOPE

 

2012〜2014年にやっていたマガジンPERISCOPEから厳選したインタビューを掲載しています。

 
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TIM HETHERINGTON INTERVIEW

ティム・ヘザリントン、インタビュー

Text: Yumiko Sakuma / Photography: Ports Bishop / Translation: Momoko Ikeda

2011年4月20日に、リビアの前線を取材中に殉職したティム・ヘザリントンの名前の前には、「戦争ジャーナリスト」という肩書きがつくことが多かった。本人はそう呼ばれるのを嫌っていたようだ。サウス・ウィリアムズバー グのロフトに暮らし、イギリス人らしく午後のお茶を愛し、情熱的に本や写真について語ったティムは、ニューヨークのアート・コミュニティの人気者でもあったけれど、亡くなったときには、ホワイトハウスが声明を発表し、リビアの街のスクエアにティムの名前が付けられた。彼が亡くなって、2008年に録ったイ ンタビューを再訪した。

 

Q. この仕事を始めたきっかけは? 写真と旅、どちらが先でしたか?

旅をすることが先にあった。転々と移動しながら育った。育つ過程で、僕の家族は計12カ国もの場所に暮らした。両親も元々よく動 き回っていた人たちで、そういうことが体に染み付いた。1992年、イギリスが不況に見舞われ、職が見つからなかったから、国を出て旅をすることにしたんだ。旅のおかげで写真を撮るようになった。これまで70~80の国を訪れたことがある。2005年~2006年あたりには西アフリカに住み、アフリカ諸国 25~30カ国で仕事をした。依頼仕事のために旅をするので、「この仕事のためにあの国へ行ってくれるかい?」と聞かれる。でも、私はホットゾーンから ホットゾーンへと飛び回る戦場カメラマンの仕事に興味はない。僕がしているのはそういうことではなく、もうちょっと突っ込んだこと。だから作品では長期的なプロジェクトを専門としていて、そのためにシエラレオネ、リベリアへと住み渡り、最近はアフガニスタンで時間を過ごしてきた。

Q. いわゆる戦場カメラマンと自分をどう区別していますか?

僕の作品は物語。ストーリーに強い興味を持っている。物語を、政治的な物語を語るために、様々な視覚手法を取る。僕の作品は、紛争や政治につ いてであるけれど、たとえば兵士が寝ている姿のように、人々の親密な関係を通じて物語にリンクする。僕が興味があるのは、被写体と同じように生活し、何かを共有したりして、彼らと深く関わること。

Q. あなたはストーリーを伝えるためにいくつものメディアを使っていますね。

昨晩、ある人が言ってた。「Your ideas are bigger than your media(伝えるアイディアは表現手段よりも大きいものだ)」って。ある人について言ったことだったのだけれど、この言葉が気に入った。これまでは自分 たちのことをライターとかフォトグラファーと定義していたけれど、テクノロジーがこんなにも柔軟になったことによって、それ以上の存在になることが可能に なった。僕が何者なのかを決めるべきは被写体。媒体の仕事を見た人は、僕のことをフォトジャーナリストだと思うだろうし、インスタレーションを見た人は僕 のことをアーティストだと思う。僕はその両方なんだけれど、ふたつの世界をつなぐのは被写体なんだ。写真や映画のコミュニティに馴染んだと思ったことはない。それが自分なんだと思っている。いつも外にいる。

Q. どうやってその境地に?

ただとけ込めなくなった、ということだと思う。デジタルメディアと紙媒体との違いによって、考え方が変わった。紙というメディアでできたことと、写真をスキャンしてデジタル化させ、投影することのできる柔軟性の違いのなかで、デジタルな世界が、自分に何ができるかについての考え方を大幅に変えたんだ。

Q. 被写体との関係を作る上で役に立つあなたの資質はなんだと思う?

僕はいわばカメレオンだし、そうならざるを得ない。旅をし続けたことで僕はカメレオンにならざるを得なかったし、どうやって溶けこむかを学んだ。知らない国の知らない街に連れてこられて、友達もいなかったら、適応せざるを得ない。溶けこむ必要もあるけれど、ぎこちない思いもする。僕が被写体に近づくとき、部外者だから気まずく思うときもある。問題はどう内部に入り込むか。結局、どうやって人と通じ合うかを学ばないといけない。そしてそのとき一番大切なのは、正直さだと思う。作品を見れば、その人が正直であるかはわかるもの。感じ取れるから。人と関わるときだって、正直であるかどうかはわかる。人間だから、ほんの僅かな体の動きからも何かを感じ取る。僕はたとえ知らない国に突然連れて行かれても、そこに適応してサバイブできると思う。何年もやっているうちに、本能的にどう人と関わるか、もっと直感レベルで分かるようになる。勘が働くようになるんだ。これはいい状況なのか? 悪い状況なのか? 立ち去るべ きか留まるべきか? 現地の言葉は話せないけれど、その場の状況や相手の体の動き、雰囲気から状況を読み取るようになる。そして本能的に人と通じあうよう になる。極端なことをいえば、自分が誰かに対し正直であって、相手も正直でいてくれることから、自分の正直さを感じ取ってもらえれば相手も同じように感じるはず。だから、どう行動するかといえば、正直でいるしかない。正直でいれば、相手とつながりあうことができる。これが関係性の作り方で、さらに作品が誠実であれば、人とも同じようにつながることができる。とても簡単なこと。

Q. あなたは白人でとても背が高い。目立つでしょう?

そう。だからアフリカにいる時はハッセルブラッドを使う。リベリアではすべての作品を中判カメラで撮った。僕はとても背が高いから、顔にカメラを近づけた時、その姿がとても攻撃的に見える。特に戦場ではなおさらね。ハッセルブラッドやローライフレックスを使うことで、カメラが低い位置にくる、それで人との関わり方が大きく変わった。「今僕はあなたに話しかけていて、写真を撮っているけれど、あなたにも僕の姿が見えていますよね」という風に。

Q. あなたを惹きつける被写体には共通項はありますか?

自分の作風を把握するのにはとても時間がかかるし、いつも変化し続けるもの。でも過去のプロジェクトを見返してみることで、自分の軌跡を分析すること はできる。今なら僕の仕事は、“親密さ”を感じさせるものであると言える。僕にとって、被写体と関係を築き、彼らにできた作品を見せることはとても重要なこと。これは彼らと世界とをつなぐような作業。僕はリビアにいる人々とつながっていて、そこからあなたも彼らとつながっている。僕らはみんな否応なくつながっている。これは人の営みのサイクルの中で起こっていること。もうひとつ言えば、僕の作品の多くは政治的で、それは僕が紛争に興味をもっているから。理由は紛争というものが人間としての経験のなかでもきわめて極端なところにあり、でもそこにはとても人間らしいことがあるから。人は、僕が紛争を題材にするのは、戦争が悪だと示すためだと決め付ける。一度も戦争に行ったことがない人は戦争を悪だと思う。もちろん、戦争は一種の悪だけれど、でもそこには彼らが知らない他の何かもある。たとえば戦争中の写真でも、被写体2人の間に、本当の優しさの瞬間、愛の瞬間が芽生えている。 二人の人間の間に思いやりの瞬間、つまり愛がみてとれる。戦争には、恐ろしいことがいくらでもある。戦争という人的行為の極限においても、優しさが存在する瞬間がある。「悪」は、隅々まで行き届いている。でも愛のある瞬間を見つけることができる。極限の行為のさなかでも、人間はやはり人間なんだということが、重要だと思う。“これが善でこれは悪”というよりも、もっと微妙なこと。それが僕の興味を惹くんだ。だから僕がそれを表現することができれば、僕はもう一度その写真と繋がりを持つことができる。そしてリベリアと繋がりを持った経験のない人が、 写真を通してリベリアと繋がりを持つことができる。それが大切なんだ。そうすれば、「リベリア人たちは殺し合いをしている気の狂った奴らだ」な んてことは言えないはずだ。それが僕のやりたいことなんだ。

Q. どうしてあなたは紛争に興味があるのでしょう?

紛争にとりつかれたのは、人間の感情をこれほど明確に見ることができる職業は他にほとんどないから。だから僕は戦争に強く惹かれる。戦時における人間の感情は、極端なまでに明瞭だ。他のどんな状況で、これほど強烈な愛、憎悪、貪欲、許しを見ることができる?そこで目にすることは信じられないようなことだ。 そこに中毒性があるし、僕の写真を見る人が感じるのはそういうことだ。つまり、写真を見た人も、それを経験しているわけだ。恐怖、それも完全なる恐怖感、 そして生きていることに対する喜び、こういうことが麻薬のように作用する。僕はアフガニスタンの兵士と数年過ごしたんだけど、最近、一人の兵士がこう言っていた。「戦争を離れて、休暇に入っているとき、何も感じない。何も感じないんだ」。戦争のさなかにいるとき、感情が高まりすぎて、そこを離れたとき、何もかもが灰色に見えるんだ。

Q. NYやロンドンに戻った時、その状況にどう対処するのですか?

僕は自分のことを戦場カメラマンだとは思っていないけれど、友達に戦場カメラマンと名乗っているやつがいる。彼に一度、戻ってきた時の鬱状態にどう対処 しているのかと聞いたことがある。彼は僕に「ただ、全て受け入れるんだよ。落ち込んで、家に帰る。ドアをロックして、メランコリックな音楽をかけるんだ。 コニャックを飲んで、ただその状況に入り込むんだよ。頑張ってやってみるんだ」と答えた。僕はそれを聞いて、なんていい方法なんだと思った。ニック・ケイブやトム・ウェイツをかけて、悲しみに昏れる。奇妙な仕事だと思う。なぜならどこかこの仕事に抵抗したくなる自分がいるから。この仕事はある種とても破壊 的で難しい仕事。自分とまわりの人々をとてもストレスの強い状況に置くことになる。でも、これが私の仕事で、私自身の一部でもあるんだ。

11.08.2012


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THE UNDERGROUND DREAM: THE LOW LINE

地下に広がる公園建設の夢

Text: Periscope / Translation: Kana Ariyoshi

かつての高架貨物線跡を公園にしたニューヨークのハイラインは、公共化できるスペースの概念を拡大したが、今、逆に地下の使われていないスペースを公園に するというプロジェクトが進行している。<デランシー・アンダーグラウンド>と名付けられたこのプロジェクトは今、<ローライン>という愛称で知られるよ うになりつつある。地下公園建設のアイディアが進んでいるのはローワー・イースト・サイド。1903年から1948年まで、ブルックリンのウィリアムズ バーグからマンハッタンへと通勤する労働者たちを運んだトローリー・ターミナルの跡地である。これを実現するために、プロジェクトを考案したデザイナーの ジェームス・ラムジーをはじめとする友人のグループが非営利団体<アンダーグラウンド・デベロップメント・ファンデーション>を設立し、2014年から 2015年にかけての完成を目指して計画を進めている。ジェームス・ラムジーに話を聞いた。

Q. どうやって地下に公共スペースを創るというアイデアを思いついたのでしょう?

ニュー ヨークの歴史にずっと関心があって、3年ほど前に、ニューヨーク都市交通局(MTA)に勤めていたというエンジニアと一緒に仕事をしたときに、ニューヨー クの地下に使われずに廃れているスペースがあると教えてもらった。信じられないくらいおもしろい話だと思った。なかでも最大で、また一番迫力のある場所として教えてもらったのが、今<ローライン>にしようとしている場所で、たまたまそこは自分の家の近所だった。そこからアイディアが浮かんだんだ。ニューヨークは常に進歩的な都市だし、商業や発展、そして利益をあげることが物事のベースになりがち。そのせいでニューヨーカーは、他の街に比べると、自分たちの街や建築環境の歴史にはあまり気をとめない傾向にある。でも実際はニューヨークは古い街で、地下にはたくさんの歴史が眠っている。どこに目をやればいいのかさえ知っていれば、昔からあるニューヨークの姿を見つけることができる。そんなニューヨークの考古学的な性質に強く興味をかきたてられる。

Q. ハイラインとの関係は?

類似性はたくさんあるけれど、このコンセプトを考え始めた時、特にハイラインに強くインスピレーションを受けたというわけではなかった。ただ、ハイラインはニューヨークにある使われていないスペースを、よりクリエイティブな方法で活用したという意味で、僕も含めて多くの人に公共スペースのあり方をより大胆に考えさせるきっかけをくれたと思う。

Q. これだけの規模のプロジェクトには乗り越えなくてはならない障害があると想像できるますが、実際に可能だと思いましたか?

障害はある。最初は単なるクールなアイデアだったんだ。そこから、考えれば考えるほど、よりおもしろくなった。実際にデザインをして、どんな空間になり、どんな感じになるのかと考え始めた。それから政治家にコネのある友人に話して、まずは市長の事務所の人たちと何度か話し合いの場を持てることになり、最終的にはMTAのトップに行き着いた。どんなプロセスを踏むべきなのか、どんなことが関わってくるのか、行政の役人と何を話せばいいか、何もわからずに、実際に行動に移すことにして、彼らに話をすることから始めた。そのプロセスを通して、これからどうすべきなのかの道筋が見えてきた。

Q. このプロジェクトを実現できると思ったのはいつでしたか?

道のりは長い。最初は個人的な興味として、おもしろくてクールなことだと思って考え始めた。いろいろな友人に話すほど、みんなで協力して実現させることができそうな気がしてきた。特に、一緒に団体を立ち上げた二人の友人、R.・ボイキン・カリーとダン・バラシュがいる。ボイキンは僕の古くからの友人で政界に強い人脈を持っている。ダンも旧友の1人で、非営利団体と市政に関して豊富な経験がある。二人とアイディアを詰めていく中で、僕たちはこのプロジェクトを実現させるための団体を設立することを決めた。非営利団体の立ち上げに関しては、ハイラインの立ち上げメンバーが、当初からアドバイザーとして多くのヒントを与えてくれた。ハイラインの発起人であるジョシュ・デービッドは、僕がコンセプトについて最初に話した相手の1人だったんだ。

Q. 大規模で困難な一大プロジェクトですが、何に動かされているのでしょう?

まずニューヨークの歴史を探求できるということ。そしてデザインを探求し、このプロジェクトの未来の姿を想像できること。意義のあることができるということ、そして、地元のコミュニティが楽しめるランドマークを創る、ということに意欲がかき立てられる。

Q. ニューヨークのような場所で公共スペースの持つ役割とは?

ニューヨークは格子状につくられた街で、スペースはもうあまり残っていない。現存のスペースはだいたいにおいて開発されてしまっている。だから他の都市に比べて緑地も少ない。特に、ローライン建設予定のこのエリアは、ニューヨークの中でも最も歴史的な地域であると同時に、オープンスペースという点ではもっとも疎かにされてきた地域でもある。都市開発の観点からすれば、何ができるかという疑問の答えを再定義する可能性も秘めているし、そのうえ、この重要なエリアが切実に必要としている空間を創り出す可能性があるプロジェクトなんだ。

Q.普段、アイディアはどこから得ていますか?

奇妙に聞こえるかもしれないけど、アイディアやデザインのひらめきを得るのは、寝ている時なんだ。だいたい何かを考えながら眠りについて、その夜のうちに、どこかの空間の中を歩き回っている夢を見る。そのプロセスのなかで、いつしかデザインしてしまっている。

Q. 自分がこのプロジェクトにとりつかれている理由を考えることはありますか?

結局、僕はアイデアを思いついた、というだけのことなんだ。そしてそのアイデアについて考えれば考えるほど、それは魅力的な最高のアイデアで、僕はそれを実現させられる立場にいるってこと。もし僕がやらなければ、誰がやるのか? もし今やらなければ、いつやるんだろう?って。これは世代に一度というくらい稀なチャンスなんだって思うんだ。

Links

http://delanceyunderground.org/

 

12.05.2012

 
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IT ALL STARTED WITH AN AX

ピーター・ブキャナン・スミス、インタビュー

Text: Periscope / Peter Buchanan-Smith Portrait: Ports Bishop / Translation: Kana Ariyoshi

2009年に「パートナーズ&スペード」で壁に斧がかかっているのを見た。「パートナーズ&スペード」は、「ジャック・スペード」の生みの親で、ブランドを売却してからは、J.クルーの再生のカギのひとつになった「Liquor Store」 のコンセプトをはじめ、さまざまな企業のブランディングを手がけてきたアンディ・スペードが運営する事務所兼ギャラリーである。なんでまた斧なんだろう? と思ったが、12本限定で作られた斧はあっという間に売り切れ、それをきっかけにどんどん注文が入るようになったという。斧を作ったのは、雑誌『ペーパー』 の元クリエイティヴディレクターであるピーター・ブキャナン・スミスだった。3年経ったいま、その斧から偶発的に始まった「ベスト・メイド」は、キャンプ 用品からおもちゃ、アパレル商品までを幅広く扱うブランドに成長した。それぞれの商品を作るのに、いちばん適した工場を見つけ、工場とがっつり組み合って 腰を据えた商品開発を行う。ひとつひとつの商品にはストーリーがあり、それをオーディエンスとシェアする。いま、「ベスト・メイド」の商品はニューヨーク を中心に、拡大するアウトドア人口やクラフトマンシップを重んじる層に幅広く支持されている。斧が生まれたきっかけ、それがどうブランドに発展したか、 ファウンダーのピーター・ブキャナン・スミスに訊いた。

Q. 斧を作り始めたきっかけは?

2009年に不景気がやってきた。リーマン・ブラザーズの破綻、バーナード・マドフ事件が起きて、世界は終末に向かっているように感じられた。ブッシュ政権からようやく抜け出した頃だよね。ちょうど個人的にも辛い時期だった。離婚を経験し、子供のような存在だった飼い犬を亡くした。さらに自分の仕事を信じられなくなった。グラフィックデザイナーとして、パッケージとアイデンティティ・デザインを専門にやっていて、景気の悪化で自分の職業そのものが浸食されているような気がした。クライアントを失い、予算は削減された。
 その時、アンディ・スペードから、彼がオープンしたばかりのギャラリー「パートナーズ&スペード」に何か出品しないかと声をかけられた。きわめて潜在意識的に、斧を選んだ。斧の柄をペイントしてアンディに送ったらとても気に入ってくれた。さらに1ダース作ったらすぐに完売した。その時に、この斧にはもうちょっと意味があるんだと気がついた。この斧は、多くの人が自分の会社を始めるときの理由と同様、自分にとって、自分の事業を立ち上げることで状況を自分でコントロールする状況を作り、自分が独立した存在になろうとする言い訳だったんだ。でも同時にこの斧とそれに付随するライフスタイルにより深く入り込むいいチャンスにもなった。言い換えれば、屋外で薪を割るという、最もベーシックな形で生きるということに。人生の暗い時期、僕がやりたかったのは、外にいて薪割りをすることくらいだった。コンピューターの前で多くの時間を過ごしている人たちでも、その感覚を共有する人がたくさんいることに気づいた。1ダースの斧から、多くの斧を作るようになった。シンプルな道具で世界を作り出せるチャンスだと感じた。同じような気持ちを抱かせ、同じような空間を満たし、同じような使い方を提供する他のモノや道具も取り扱えないか試してみたかった。

Q. このブランドを立ち上げる前のあなたと道具の関係は?

小さな農場で育った。シンプルなツールに依存するような。一日中、大きなトラクターに乗って走り回っていたという感じではなくて、フェンスを建て、干し草を運び、薪割りするような感じだった。農場育ちだけど、女兄弟しかいなくて一緒に遊ぶ人が他にいなかった。だから誰もいないような場所で何かを作って一人で時間を過ごすことが多かった。斧やハンマー、のこぎりみたいな“大人”用の道具は、僕のツール・ボックスの一部だった。そういうものをいつも使っていた。

Q. クラフトマンシップが以前より評価されるようになってきたけれど、いいタイミングでビジネスを始めたと思いますか?

そうだね。さっきの話に戻るけど、一日中コンピューターの前に座っていることへの反動や反発なのかもしれない。今やアメリカ国内の製造業への回帰が注目の話題になって、「メイド・イン・アメリカ」商品へのノスタルジアがある。異論を唱えるつもりはないけど、世の中はどこからか来てどこかに消えてしまうような製品で飽和状態だったと思う。モノがどこでどのように作られたかなんて気にしていない。だから簡単に使い捨てされる。自分たちが着る服や食べる物への愛着などほとんどない。そんななかで、始まりはスローフード運動のようにシンプルなことだった。経済が破綻したことで、お金は少なくなったけれども、以前よりもよいお金の使い方をするようになった。そうして、どこでどんな風に作られた商品か、その商品への思いが分かる物を買おう、名もない工場で作られた物じゃなくて。そういったことがこうした流れになった。

Q. ニューヨークで斧を軸にビジネスが成立することに驚くけれど、斧が実際に使われているかは気になりますか?

気にかけているよ。みんなに斧を使ってもらえれば嬉しい。ただお客さんや関係者と話してみると、半分くらいの人が使っていて、残り半分は使っていないみたいだね。「使う」といっても、文字通り、外に出て木を割るのに使う人もいれば、壁に飾って使っている人もいる。斧は自然と僕らをつなぐ窓のようなものだから、それはいい使われ方だと思う。最悪のシナリオは、誰かのベッドの下でほこりをかぶっていることだ。ゾッとするよ。だから欲しがっているかも分からないような人に斧を無料で贈呈することは絶対にしないというポリシーがあるんだ。

Q. 斧に「不屈」という言葉がついていたり、ワッペンに「オプティミズム」と刺繍されたりしているのにはどういう思いがありますか?

それは斧を売っているという事実からきている。つまり斧は自分を傷つけることもできるし、最悪の場合、他人を傷つけることもできる道具だってこと。危険な道具だからとても美しくセクシーだという側面もある。これまで損害賠償保険に払ってきた額以上を費やすよりは、斧ごとにあるメッセージを込めることの方がもっと意味があると思った。「斧をご購入頂きありがとうございます。責任を持って正しくお使いください」といった健全で道徳的なメッセージだ。「勇気、優雅さ、思いやり、不屈の精神」という4つの軸が斧を形作っている。斧の売り手に、商品について道徳的な姿勢を持つことは期待されていない。でも実際にやってみて、そのうち、他にも適用できないだろうか、良いメッセージを発信する会社になれないか、と考えた。僕らは、よき市民であったり楽観主義でいるべきだと発信する商品を作ってきた。ラルフローレンが富とシャトーに対する憧れを促進しているとしたら、勇気がわき、大邸宅がなくても満足できるようなインスピレーションになりたいんだ。

 

Links

Best Made Company

http://www.bestmadeco.com/

11.08.2012

 

JOURNAL: NEW BRAIN, THE BENEFIT

フォトグラファーによるガン闘病記

Text and Photos: Jeffrey Shagawat / Translation: Kana Ariyoshi

ジェフリー・シャガワットは、ニューヨーク在住の37歳のフォトグラファーだ。昨年、悪性の脳腫瘍と診断された。このつらい事実と向き合うために、フィル ムカメラとビデオを使って、日々の記録を撮り始めた。NEW BRAINと題された一連の作品はその記録の集大成だ。今、ジェフの病状は「寛解期」といわれる段階を通過しながら、ギャラリーで個展を開催すべく、作品 を構成している。ジェフにフォト・エッセイを提供してもらった。

その夜のことはあまり覚えていない。強い電気ショックと体の部位が不自然にねじ曲がるような感覚だけ覚えている。それ以外の記憶は空白だ。アパートの中を歩き回っては扉やキャビネットを開けてモノをあちこちに動かしていたらしい。そんなゾンビ状態が終わると、再び眠りにつくまで激しい息遣いに、激しいいびきをかきながらベッドに横になっていたという。恐ろしいことだ。今思えば、裸のままキッチンで扉を開けたり閉めたりするゾンビだったということが、ちょっとおかしい。すごい光景だろ? 今、ようやくちょうどいい薬の組み合わせが見つかって発作から解放された。

あの日から、突然、がん専門医、神経科医、ソーシャルワーカー、MRI、化学療法、放射線治療、瀉血(しゃけつ)、抜け毛、薬、事務手続き、感情の激しい波が、自分の人生のすべてになった。そんなつらい日々と向き合うためにすべてを記録した。スチールカメラとビデオを持たずに外に出かけることはなかった。あらゆることを保存し、記録した。初めて撮ったのは、不安そうな顔をして僕を見下ろしている家族を、手術室へ向かう担架の上から撮った写真だ。起きている間は、自分のホチキス止めされた頭や髪の毛の抜けた姿、闘病生活を無数に撮った。それだけじゃなくて、診察の行き帰りの車の中からたくさんの写真を撮ったり、ストリートフォトやアートなヌードや友だちとも撮影をした。カメラのレンズを通して自分の変化と向き合っていた。

NEW BRAINでは、診断の時にはりつめたあの困惑した状態を再現したかった。当時、かなりのショック状態だったし、投薬中だったから、今では映像が自分の記憶の一部になっている。ビデオは、病気を抱えるということについての、ひとつの興味深い考え方を表現している。医者との面会、採血のシーン、放射線治療に向かう途中に福祉車両のドライバーと話す様子、医療関係の映像も多い。逆に、街をただ歩き回ったり、ストレスを解消するために泥酔したりしたときに撮った抽象的な画像も大量にある。

この経験は、自分のアーティストとしてのビジョンに大きな影響を与えた。ツールとしてのアートが持つ強大な力に、心から気がついたことはそれまでなかった。アートが僕の命を救ってくれた。アートを生み出さずに、この試練を切り抜けられたとは考えられない。アートのおかげで集中もできたし、気を紛らわせてもくれた。悲しみには支配されたくなかった。

この経験を乗り越えるのに、助けになったことが他にもいくつかある。どうやって始めたかは覚えていないけど、いつからか、マッシュルームをあちこちで少しずつ口にするようになった。パープルで、ちょっとぼんやりとした、ふわふわした感覚を与えてくれた。診察室で、みんなから「上機嫌だね」なんて言われたりした。僕は「この病気と向き合って、アートを創りながら、勝つんだ」と思ったことを覚えている。毎朝、福祉車両に乗り込んで化学療法を受けるために少しだけ服用していた。かなり助けられたし、厳しい日々に明かりを照らしてくれた。

放射線治療と化学療法の最中には、夜に家に帰ってはバーに行っていた。周りからは「免疫システムを大事にしろ」と言われた。それはわかる、でもそれでも自分の人生を生きなきゃいけない。すべての習慣をやめることはできない。人を家に呼び、レコードをかけて、その晩だけでももうひとつの世界に逃げたかった。次の朝にはまた車が僕を迎えに来るから。そうして夜になると、また友だちが遊びに来て一緒に時間を過ごした。困惑してたやつもいたけど、楽しかったから、すべてをふわっとした感覚で受け止められた。

だから、NEW BRAINは悲しい話ではない。希望を与えられるようなストーリーにしたいんだ。ひとりの人間がどうやってつらい病気を乗り越えたのか。そうでなかったとしたら、少なくともどうやって最悪の1年を切り抜けたのかを見せたい。ショッキングな映像かもしれないけど、僕のストーリーは正直だし、生のストーリー。勝利の物語だけれど、どこか変わっている。構成し始めた時は、興奮して感動していたけど、今は距離を感じ始めている。そして今後はもっと離れていきたい。頭痛や副作用が続いているけど、そんなこと全部忘れてしまいたい。でももっと大事なことは、病気を乗り越えられたということ。それこそ自分の経験をシェアしようとする原動力になっている。

NEW BRAINのおかげで、インタビューを受けたり、ガンに対する意識を高めることに役立ったり、力強いアートを創ることで多くの人に関わることができた。ガンの経験から生まれた芸術的表現を集めたカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)ゲフィン・メディカル・スクールで行われた展覧会にも出展した。それだけでも十分なことだけど、さらにNEW BRAINの完成版をひとつのギャラリーで展示したい。一連の作品は悪魔を解き放つようなものだと捉えてきた。今では、ギャラリー展示への試みが悪魔になった!いくつかの街でずっとあちこち探し回ってきたけど、まだ誰も拾い上げてくれない。理解できない。ガンはいろんな形であらゆる人に影響を与えてきたことだから、人が飛びつくだろうと思っていた。でもこの時代、世の中は一切れのリアリティなんて求めていないみたいだ。チェルシーのギャラリー関係者の言葉を借りれば、「ガン闘病記はもう時代遅れ、成功したいならガンで死んでこそ」らしい。

 

Links

http://www.shagawat.com/

http://shagawat.tumblr.com/

11.27.2012

 
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VOICE AS AN INSTRUMENT

Oorutaichi インタビュー

Text: Periscope / Performance Photo: Yoshikazu Inoue / Portrait: JIMA

「2007年にBearfunkがMISEN Gymnastics をリリースしたときに、Oorutaichiの 存在を知った。どんな音楽とも違うクレージーなサウンドで、完全に違うレベルの存在だった。その音があまりにユニークなので、どこかにこもって独自の世界 を創りだす彼の姿が想像できる。他のシーンでかけられている音楽や、流行にまったく影響されない。彼の音楽を聞いていると、どうやってこの音楽を作ったの か? どうやってここにたどりついたのか? 何を考えているのか?と考えてしまう」 ティム・スイーニー

どんな子供でしたか?

物静かでおとなしい子供でした。

今もおとなしい印象ですが、パフォーマンスになると何かが降りてきたみたいに違うイメージになりますよね?

インプロでやってたときに、その場かぎりのものだから出し切ろうという感じで、そこからだんだん今のスタイルになったのかもしれない。

どんな音楽から影響を受けましたか?

エレクトロニックでやるきっかけになったのは、ダンスホール・レゲエなんです。打ち込みにめちゃエモーショナルなラップが乗っているというスタイルに感銘を受けて。あの行き過ぎた感じの熱さが好きです。

既存の言語とは違う、歌の独自の言語は、自然に生まれてきたもの?

そうですね。今は本当に歌みたいにやってますけど、その前はインプロみたいな即興的なスタイルでよくやっていたので、その時に声を楽器として使っていた流れなのかと思います。

声が言語というより楽器ということですか?

はい。大学時代にダンス・ホール・レゲエにはまった時期、そこからパトワ語という英語とジャマイカ語がミックスしてできた言語を好きになって、その響きのおもしろさから影響を受けたのが大きかったですね。

音楽以外のいわゆるパフォーマンスアートとかの影響はありますか?

日本のギリヤーク尼ケ崎という、今もう80歳くらいのおじいちゃんにものすごく衝撃を受けました。僕が見た時は70歳くらいで、ひとりで各地の路上でパフォーマンスをする。路上でピエロみたいな踊りを踊ったりとか、エア・津軽三味線、それで高揚してふんどし一枚でその辺走り回ったりするんです。

音楽以外で普段どういうことにインスピレーションを受けたり、興味を持ってますか?

瞑想が好きです。ヴィパッサナー瞑想というスタイルがあるんですが、今一番音楽と同じくらい興味をもっています。震災があって、みんなそうだと思うんですけど、けっこう深く考えた。僕も震災がきっかけで、前から興味があった瞑想を、京都の施設で体験しました。

震災をどのように受け止めました?

それまで仮想の世界に生きていたんだなと思ったので、もう一回自分を見つめ直す作業が必要なのかなと思った。例えば、ご飯ひとつにしても、誰が作ってというところが全然見えないじゃないですか。全然つながりが見えないところで生きてたというか、自分の手の内で、つながりがあるところで生活を作らないと、ああいうことが起きたときに、いつでもすべてひっくり返ってしまうんだということを体感しました。

インドのヴィパッサナー瞑想について教えてください。

ごくシンプルな瞑想で、ただ息や体の細部を観察するっていう瞑想法です。10日間、宿泊所みたいなところに泊まるんですけど、話をしたらいけない。ひたすらずっと瞑想するスタイルです。いきなりスピリチュアルなところにポーンといくわけではなくて、地に足がついた感じで、自分を観察する作業をするんですね。

音楽が売れなくなったということがよく言われますがどうでしょうか?

お金にならないということを念頭においてる部分で難しいと思う。やりたいことをやることが一番にあって、それをやるしかない。でもやり続けていたらまわってくるはずだと思います。

01.24.2013

 
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UNCOVERING A FAMILY SECRET

マイケル・ヘイネー、インタビュー

Text: Periscope

マイケル・ヘイネーほ どPERISCOPE(パラスコープ)が信じる「人間はプリズムである」というコンセプトを体現する人もなかなかいない。アメリカ版GQの副編集長として 昼間はメンズ・スタイルをカバーしながら、週末はスタジオでペインティングに打ち込み、これまでひっそりとギャラリーなどで作品を発表してきた。そのう え、過去10年にわたり、朝の数時間を費やして自分の作品を執筆してきたのだという。その結果できたのが、最近出版された回想録<After Visiting Friends>である。このなかでマイケルは、新聞記者だった自分の父がどうやって死んだのかを知るために、手がかりを求めて、父の友人を訪ね歩いた 日々のことを振り返っている。マイケルに、このごくパーソナルなストーリーをシェアすることにした理由を聞いた。

本は6歳の時に父親が亡くなって、理由を知らされなかった、という事実に立脚していますね。

母親から、ある説明を受けていて、それは父の兄にあたる叔父から母親に伝えられたものだった。10歳くらいの頃から、その説明が理屈に通っていないと思っていた。18歳になって、父親の死亡記事を発見した父は「友達を訪ねた後に」亡くなったと書いてあった。「おかしいな。父の友達のことは聞いたことがない。あの夜、父と一緒にいたという人の話も聞かなかった」と思った。それからの友達は誰だったのか、あの夜本当に何が起きたのかを追求しようと思うまでに、ゆうに20年くらいの年月が流れた。

自分のストーリーをシェアしようと思った理由は?

とても個人的で、僕のストーリーだけど、人の心に響くと思った。誰でもこのストーリーに自分か、自分の家族を重ねあわせることができる。誰にでも家族がいて、どこの家族にも秘密がある。秘密とその答えを探し出すことに誰もが憧れる。だから、自分のストーリーが、人のインスピレーションになったり、家族が抱える秘密に対する疑問に声を与えることができると思った。そして、自分が秘密を探求することに対する恐怖感によって、家族がより近くなることもあることをを示せると思った。

何が起きたかを調べるときに、<沈黙の壁>にぶちあたりましたよね?

父の新聞時代の仲間たちは、ある規範にしたがって生きていて、そのために沈黙していた。そのうえ、僕や母親を守ろうという気持ちから動いていた。彼らには、愛情以外の気持ちはないよ。人はみな、真実が欲しいというけれど、真実を伝えるメッセンジャーになるのはまた別の話。彼らはその責任を追いたくなかったんだと思う。

この本を書くプロセスには、癒しの効果はありましたか?

この本は、父が死んで1年か2年後、まだ子供だった自分にまつわる断片的なストーリーと、その頃の回想とともに始まる。昔、こういう小さなストーリーを友人に話していたんだけれど、彼が僕に書くことを勧めてくれた。書き始めたら、(自分の思考を)明確にすることができた。自分のなかにあるものを吐き出すことで、自分を解放することができる。そしてそれをアートにする。書きつけることで、ストーリーはもはや自分を支配しなくなる。でも他者にインスピレーションや声を与えることができるようになる。

記者である自分から、自分について書くことにスイッチするのは大変でしたか?

そう、自分についてはあまり話さないから。僕のことをよく知る人には、いつも「話を逸らさないで」と言われる。子供時代から、自分のことを話すことを避けること、質問されると、相手への質問で返すことを学んだ。この本の第一稿を書き上げたとき、友人の映画プロデューサーに見せた。彼はメモをとって、すごく好きだと言ってくれたけれど、「この本にはひとつ問題がある。君がいない。父親のことは書いてあるけれど、僕が知りたいのは、君がどう感じ、どう影響を受けたかだ」と言った。頭のなかで鐘が鳴り響くような瞬間だった。誰かの許可が必要だったんだと思う。それで第一稿はしまいこんで、また最初から書き始めた。

自分のストーリーが表に出たことに、今はどんな気持ちですか?

人間の弱さは強さでもあると信じている。自分が「こう感じている」とか「これを経験した」と言えるとしたら、それが人をインスパイアしたり、癒しを与えたり、自分のことを奇人だとか、アウトサイダーだと感じることが減る助けになるかもしれない。自分は長い間そういう気持ちでいたから。たぶん「あなたは一人じゃない」と言いたかったんだと思う。

本を読んで、あなたもかつて「新聞屋」だったことがわかったけれど、ファッションについて書くようになると思っていた?

考えたこともなかった。GQに行ったのは、彼らの記事やジャーナリズムのやり方が好きだったから。スタイル、ファッション、アート、クリエイティビティという分野においてはベストだし、クリエイティブなものが世界に生み出される様子を見れるということに引きつけられた。何かを作っている人、モノがどうやって作られるのかに興味がある。でもスタイルはいつも好きだった。大学時代には紳士服を売るという仕事もした。子供時代だって、何を着るかにこだわりがあったし、自分がどう見えるのかが頭にあった。見栄を張るという意味ではなくて。父親が死んでから、うちにはあまりお金がなかった。兄のお古をよく着ていたんだけど、どうやって自分が好むふうに変えられるかをいつも考えていた。

ファッション人だと思われているけれど、それはほんの一部ですね。

これまで僕にインスピレーションを与えてくれた人は型にはまらない人たち。ウォルト・ウィットマンは、新聞の編集をやりながら詩を書いた。フランク・オハラは、美術館のキュレーターを務めながら詩を書いた。ロバート・マザーウェルは評論家だったけれど、画家になった。何をやりたくなっても、それを実現するといつも思ってきた。それでもしかしたら人にインスピレーションを与えられるかもしれない。自分を型にはめたくはないんだ。

Links

After Visiting Friends

http://www.aftervisitingfriends.com/

03.06.2013

 
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MUSIC ECHOED INSIDE OF A HIVE

タイヨンダイ・ブラクストン、ビデオインタビュー

Videography: Grace Villamil / Text: Periscope

3月21日、タイヨンダイ・ブラクストンが初めての大型マルチメディア・インスタレーションHIVEをグッゲンハイム美術館で発表する。普段めったに受けないビデオ・インタビューで、HIVEのアイディアがどうやって生まれたのかを語ってくれた。

日本語訳
HIVEは、これまでのソロの音楽活動、またBattlesやオーケストラを通じて蓄積してきたアイディアをさらに進化させるためにどうすればいいかを考 え始めたときに思いついた。そして電子機器同士、機材同士のコミュニケーション、またミュージシャン同士のコミュニケーションといった要素を進化させ、そ れを一番強化した形にするために。これまでループ・ペダルのような機材を使うことに慣れていて、クリエイティブな意味で、そこからかなりのことを得たし、 満足もしたけれど、あるテクノロジーを使ってやれることには限界がある。もうやり尽くした感があった。

もうひとつやりたかったのは、テク ノロジーを使うことには慣れたけれど、それをこれまでやったことのない方法で、バンドの設定でで きるかということをやってみたかった。Ableton Liveのようなプログラムが登場し、モジュラー・シンセシス文化の復興が起きて、初めて考えられるようになったような方法でやってみたかった。

デ ンマーク人の建築家で彫刻家あるウーファ・サーランド・バン・タムという、そのキャラクターもおもしろいアーティストがいるんだ けど、何年か前に、自分のソロ・プロジェクトのために、ポッドと呼ばれる足を組んで座る台座を作ってくれた。それをさらに進化させたくて、それでグループ を作るためにさらに4台作って、今回は計5台の設定にした。

HIVE(ハチの巣)の構造のなかにはハチのソーシャル・ネットワークがあって、彼らが自分たちの社会のなかで交流したり、それぞれの役割を果たしたりするわけだけれど、その概念を文字通りの解釈にならない程度に、取り込んだ。それに名前としてもクールだから。

自 分のことは「ナレティブ・ベース」の作曲家だと思っている。自分が興味があるのは、多様なアイディアの集合体を作ることだけでは なくて、アイディアをどこにおくかによってある方向性が生まれ、それが僕が作ろうとしている世界に音の鮮やかな色彩を与えてくれる、そういう世界を作ろう としているんだ。

 

 

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THE WORLD OF TIE-DYE

広がるタイダイの世界

photo: Shabd Simon-Alexander and Paul Mpagi Sepuya : interview: PERISCOPE

シャベッド・サイモン・アレキサンダーの世界観は「タイダイ」という言葉から想像するものとはかけ離れている。けれども、シャベッドはこの何年も、タイダイの技術だけを使って、ファッションのラインを作ってきた。最近、シーズンごとにコレクションを発表することから離れたシャベッドが、タイダイについて「Tie-Dye: Dye it, Wear it, Share it」という本を発表した。

タイダイとはどうやって出会ったのでしょう?

2008年にガーデン・パーティで、ホストがタイダイのテーブルを用意していて、そ こでとても楽しい思いをした。やめたくないくらいだった。それで、そのひと夏を使って、いろいろ試したり、自分のスタイルを追求したりした。タイダイの美 的な面は好きじゃなかったから。それで、これで生活できるだろうか、そうすれば毎日できるようになると考えた。

それで縫製もやるようになった。

洋 服作りはいつもやっていた。高校時代にはファッションショーをやったりしたし。ファッション業界で働きたいとは思わなかったけれど、洋服作りは好きだっ た。学校を卒業してから、8年ほど、東京のハナ・フシワラのギャラリーHaNNaのために、ハンドメイドのラインを作っていた。タイダイを始めてから、 ニューヨークを拠点に活動するインディのデザイナーたちと会ったのだけれど、最終的には、本を書こうと思った頃に、そのコミュニティも変わってしまった。 自分にとって、ファッションは目的を達成するための手段で、ゴールではなかった。つまり、たとえばアートの世界ではなかなかできないような、創作をして、 買ってくれる人と直接コミュニケーションできる方法だった。

本を書いたのは、技術を教えたかったから?

自分のラインを 立ち上げて、1年ほどした頃から、タイダイを教室で教えるようになった。受講者たちは、タイダイの授業をとても喜んでくれた。外の都市や海外から車や飛行 機でわざわざやってくる人もいた。多くの人から、メールの問い合わせも受けるようになった。タイダイについて、優れた本はなかったから、「こういう人たち にも教える必要がある」と思うようになった。タイダイが自分にとっておもしろいのは、テキスタイルとしての存在なのだけれど、作るという側面だけじゃなく て、社会的・文化的生活においてどういう役割を果たしてきたか、歴史を超えてきた方法とか、文化を維持してきたという側面もあった。テキスタイルは、日常 的に使われなければ、死んでしまうし、永遠に失われてしまう。だから、最初から、タイダイ自体をプロモーションしたかった。ファッションの世界では、 キュートなものは作った瞬間にコピーされる。理想的なことではないかもしれないけれど、受け入れるか、苦々しく思うしかない。だから私は、受け入れること にした。小さなデザイナーが作ったものを、大物のデザイナーがコピーしたとしたら、それが世の中に広がることの助けにはなる。私が作る量なんて、自分とあ と何人かの手がいっぱいになる程度しかないけれど、タイダイをいつも作ってきたインドの人たちはどう? トレンディな服を作れば、若い人たちが興味をもっ てくれて、それが経済的に存続可能な存在になれば、大企業が何百万という単位でタイダイの生地を作るようになるかもしれない。そしてそれを、タイダイを何 百年も実践してきた、インドの村落で生産するかもしれない。こういう動きにおいて、自分は直接的には影響を及ぼしていなくても、文化が生き続ける連鎖反応 の一部にはなれる。

タイダイは、ひとつの技法だけれど、それで自己表現が限られると思ったことはない?

唯一の限定要素 はその名前。本のタイトルを付けるにあたって、難しい選択をした。タイダイという名前について、人々がどう思っているかわかるし、自分も似たような感覚を いだいていた。だから、その言葉を使うことを避けるか、その言葉を使って偏見と戦うか。私の本を開いてもらえば、タイダイについての考え方が変わるかもし れない。タイダイは、表現方法であって、スタイルではないの。私も始めたときは、そうアプローチするようにした。「絵画とかドローイングと同じ」って。誰 も「音楽は好きじゃない」とは言わないでしょ?「ロックは好きじゃない」とか「クラシックは好きじゃない」とはいうけれど。だから、その表現方法で何をす るかのほうが重要だと思う。

タイダイの歴史についてリサーチしたとか。

タイダイは60年代に生まれたものだと思ってい たけれど、調べてみると、歴史より古いくらいだということに気がついた。何千年も存在してきたの。どうやって生まれたのかもわからないし、世界中で存在し た。何かを無地に染色しようとして、下手だったらタイダイになるわけで、たぶんそうやって、同時多発的に世界で成長したのだと思う。だからいろんなスタイ ルがある。

タイダイの新しい側面を紹介することで、既存の思い込みと戦っているということ?

そうでありたいと思う。歴 史を学ぶことで、過去に戻るんじゃなくて、タイダイはひとつの固定的な存在ではなくて、何にでもなるということを知って、進化させることができればと思っ た。(読者には)可能性が多数あることを理解して、私の創造力を超えてほしいと思う。技術と可能性を学んで、私の想像力を越えたクレージーなものを作って ほしい、それをオンラインにポストしたり、メールしてくれたりすればいいと思う。

07.26.2013

 
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AMETSUCHI: WEAVING FIVE PIECES INTO ONE STORY

川内倫子 インタビュー

Portrait: Ports Bishop / Text: Yumiko Sakuma / Photos: Courtesy of Rinko Kawauchi

この5月に、ニューヨークに拠点を置く出版社APERTUREと青幻舎から、写真集<AMETSUCHI>の日本語版と英語版を同時に上梓した川内倫子さ ん。2012年に東京都写真美術館で行った<照度 あめつち 影を見る>を立脚点にしつつ、展示とも、またこれまでの写真集とも、がらりと違う新しい感覚 を与えてくれるこの新作について、ニューヨークで話を聞いた。

今回の写真集<AMETSUCHI>は、阿蘇の野焼きの撮影が立脚点になって、そこに嘆きの壁、プラネタリウム、銀鏡神楽、東京の空と全部で5つのサブジェクトが入っています。

5年ほど前に、夢で見た景色をきっかけに阿蘇の野焼きを撮りはじめました。昨年、東京都写真美術館で<照度 あめつち 影を見る>という展示をする際に、野焼き、嘆きの壁、プラネタリウムの3つのサブジェクトで見せようと思ったのですが、嘆きの壁は強い意味を持っているので、ちょっと浮いて見えたんです。でも私は政治的なことや宗教的な問題を訴えたいわけではない。どれも同じレベルで見せたかったのですが、そこだけどうしても違う意味がでてきてしまうんですね。そんな風に模索していた時、たまたま銀鏡神楽を見に行くという話が舞い込んできました。そのときに、これがパズルの最後のピースになるかもしれないと思い、プリントして並べてみたら、被写体としてもコンセプトとしてもしっくりきました。写真集を作るときには、野焼きだけに絞ってもいいかと思ったのですが、最終的には、4つのサブジェクトに加えて、東京の自宅マンションから見えた空の写真を1枚を入れて、完成したなと思ったんです。

サブジェクトに嘆きの壁が入っているのが興味深いと思いました。

壁を超えるとか、壁にぶつかるとかいうように、壁は困難なことの象徴で、それ自体がメタファーです。とても切なくて、シンボリックな存在なうえに、イスラエルの持つ土地の強さと宗教問題などの全てが加わって、ものごとの起源や困難なことの象徴になっています。撮ってみたら、サブジェクトとして強すぎると感じて、発表しなくてもいいかなと思っていたのですが、あとになって野焼きを撮る被写体との向き合い方と共通するものがありました。起源について考えていたことで、つながりができたんですね。世界は単純に美しいだけの場所じゃないから、そこに困難なことの象徴であるものが入ることで作品にまた層ができる。その役割を嘆きの壁が担ってくれているのだと思います。

まったく違うサブジェクトの根底に、地球との関わりあい方という共通のテーマがありますね。

そうですね。自分自身の地球の関わりあい方、そしていろんな物事が今同時に起きていて、つながりあいながら、地球上に共に存在するということが、これまでの作品でも、常に同じテーマとして根底にあるのですが、今回は新しい見せ方で表現しました。それは自分が生きていることの証明でもあるし、毎回追求したいのは、常にいろんな物事とともにあって、循環しているということなんです。常に何か新しい見え方を探求するのが自分の仕事だと思うし、それを人と共有したい。そのときそのとき、違う自分を見せているつもりです。ある種、自分のドキュメンタリーではあると思っています。

今回の写真集はデザインが凝ってますね。ネガをプリントしてページの裏に刷ったり、工夫がある。

世界は陰と陽で成り立っていて、物事にはすべてネガティブとポジティブの関係がある、ということも私のテーマのひとつです。それを一冊の本としてデザインするとこういう形になったんです。たまにちらっとネガ(裏)の部分が見えるのが、私たちの生きる世界の常でもあるとも言えます。今回は、デザイナーのハンス・グレメンにお願いしたのですが、 彼が提案してくれたことが、自分の考えたこととぴったり合いました。ハンスが自分の意図をうまく翻訳してくれました。

次は?

ここ2~3年かけて撮っている中国の祭り、イギリスの鳥、出雲という3つのサブジェクトをどう表現しようか迷っているところです。すべてデジタルで撮っています。それを終えたら、映像作品をもっとつくろうと思います。

映像作品はずいぶん長い間撮りためているようですが、最初に撮り出したのはいつ頃ですか?

ビデオカメラを買ったのは2005年くらいだったと思います。最初にちゃんとした形で映像作品を発表したのは、2007年に撮ったサンパウロの移民の人たちをテーマにしたものです。東京都写真美術館で発表した映像作品の「Illuminance」で、最初は15分くらいの作品として発表して、徐々に30分、45分と尺を長くしてきました。最終的に一時間くらいの作品にして完結させる予定でした。でも、そのうち徐々に尺を増やしていくやり方が面白いなと思うようになったんです。私が死ぬ頃には10時間くらいになっていたりして、永遠に終わらない作品になってもいいと思ってます。

川内さんの作品には、パーソナル、ユニバーサルという反対のコンセプトが共存していますね。

パーソナルはユニバーサルに繋がっていますよね。全体意識という言葉がありますが、やっぱり自分たちは地球に生きていて反響し合っている、自分が作品を作る上で、そういうことにタッチしたいという欲求があります。個々が潜在意識の中で繋がっている、ということに触れたいんですね。作品を見て「なぜか懐かしい」と言われることが多いのですが、それは結局みんなの記憶のどこかにあることが、写真に入っているから。そういった深い部分にタッチできるなら、ある意味、自分の中ではその仕事は成功といえるのだと思います。自分でも作品を作り終わったときに、もちろん自分がその場にいて自分で撮っているのだけど、見せられている、とどこか人ごとのようにも思えるときがあって、そういう風に思えたら、自分の手をもう離れて、作品が完結したと思います。自分が撮ったと思っている時点では、まだ途中段階なんですね。

ビデオの魅力は?

写真を撮ることに対するストレスがあったのかもしれません。例えば、カーテンが揺れた瞬間に「あっ」と思ったときの感覚が写真には写らないときがある。そういったことが、写真に写るときもあるのだけれど、その時の感覚は、映像の方が合っていることが多いような気がしたので、そのストレスを発散するために映像を選ぶようになりました。時々、私がずっと作りたかったことは、映像の方が向いてると思うこともあります。写真はある意味、窮屈な表現方法で、限界がある。だからこその面白さもあるけれど、写真じゃなくてもいい、という矛盾もあります。その葛藤を映像をやることで埋めているのかもしれません。

07.02.2013

 
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ENGINEERED GARMENTS ON THE RUNWAY

鈴木大器インタビュー

Video: Managu Gaku Inada / Photos: Yoshiyuki Matsumura / Interview: PERISCOPE

Engineered Garmentsが7月に、NYで初のランウェイショーを開催したということを聞いて、意外に思った向きも多いに違いない。過去10年にわたり、イタリアのピッティ・ウォモでコレクションを発表してきたブランドが、なぜ今ランウェイなのか? デザイナーの鈴木大器氏に、ランウェイショーについて、またメイド・インUSAのブームについて聞いた(

今回、ランウェイのショーをやろうと思ったきっかけは?

10年間ピッティに行って、去年で最後にしました。ピッティに行き始めた当初は、うまくいくかもわからなかったけど、はったりでやったら10年やり続けるということを豪語していた。一発目はショックを受けて帰ってきたけど、2、3シーズン目からよくなって、それ以来、ずっと行ってきたんですね。でも今のピッティはまるきり違うものになってしまった。はたと気がついたとき、このままいていいのか、ルーティン化すると新鮮味がないと思った。もともとカジュアルなものがないショーだから浮いていたのに、みんなそういう感じになってしまったから。このままいると、埋もれていくような気がしたから、外れるいいタイミングかなと。次になにをやろうかと思ったときに、パリやベルリンで見せるとか、ウィメンズを強化するとかいろいろ考えたけど、新しいチャレンジとしてショーをやってもいいと思ったんですね。たまたま店を見ているときに、何かのきっかけで店でやれるって気がついた。プレスや宣伝のためのショーじゃなくて、手作りのショーを、買ってくれるバイヤーのために、小規模にやればうちらしいかなって。昔、「ランウェイ」という言葉が登場する前、「フロアショー」っていうのがあった。モデルが顧客の前でフロアを歩くというスタイルのものがあったんです。そういうショーをイメージしました。

ショーをやるにあたってテーマを設定したのでしょうか?

テーマは毎回ないけれど、いつもやってるEGのスタイルがあって、そこにちょっとした遊び気がある記号を入れている。それが今回は1968年。アメリカには反戦ムードがあるなか、ビートニクスの名残やヒッピーがあって、対岸のヨーロッパにはサイケデリックとグラムロックが出てきていて、混沌とした時代だった。その柄柄のムードを出しました。

「MADE IN NEW YORK」をタグに入れ始めたのはいつからでしたか?

最初から。日本向けにしかやっていなかった99年のときから「MADE IN NEW YORK」は入れていました。でも誰も「MADE IN NEW YORK」という言い方は使っていなかったと思います。

今となっては服だけに限らず大きなムーブメントになっていて、すごい先見の明ですよね?

たまたま運がよかったというか、そういう波に乗っかっちゃった。別に当時は大それたことだとは思いませんでした。作ろうと思った洋服が、見た目は普通なんだけど、実はものすごい微妙なところが良し悪しを決定するような洋服だから、近場で気をつけて作ってみたいなというのがあったから、ローカルが一番いいと思った。コストが余計にかかっても近くですぐ見て、工場の人間たちともコミュニケーションとって、特別な関係みたいのを作っていく。みんなで一緒に作っていくっていう雰囲気が好きだったっていうのがあるかな。  

ヘリテージや「MADE IN USA」をやるブランドが増えすぎて、希薄になってしまっている気がします。

今やもう誰もがやっているから全然ありがたみがなくなりましたよね。アメリカ製だからいい、でもデザインとかモノ自体はいったいどうなの?とは思う。どこで作っているかが重要なのではなくて、先にまずモノが大切。「アメリカで作ってりゃ何でもいいのかい?」みたいな感じになっちゃって、「そうじゃねえだろう」と。

アメリカのものに惹かれてアメリカにやってきた鈴木さんとしては、アメリカ製の何がよかったんでしょう?

自分が10代、20代は、アメリカ製ならなんでもよかった。舶来至上主義という風潮があったし、憧れてました。自分の体以外は全部アメリカ製だったくらいです。来た瞬間に、憧れは崩れたけどね。僕にとってアメリカ製の良さっていうのは、国の印象と同じでわかりづらいこと。デニムだって、素材や技術がいいわけじゃない。色は落ちるし、ボタンは閉めづらいし、でも1年着ると自分のものになる。エルメスだったら、買った瞬間から、着心地がいい。でもその価値が逆転している感じが自分にはいいのだと思います。それは他の場所ではできないこと。この国の人間、この国の空気だからできることなんだと思っています。

08.20.2013

 
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TWENTY-FIRST CENTURY TAILORING

21世紀のテーラリングを目指すAbasi Rosborough

Interview and text: Diego Hadis / Portrait: Ports Bishop / Translation: Kana Ariyoshi

ニューヨークからこの秋デビューしたファッション・ブランド<アバシ・ローズボロー>のデザイナー、アブドゥル・アバシ、グレッグ・ローズボローの過去の軌跡を見た時、二人がデザインの道を選んだのは、意外かもしれない。2006年にファッション工科大学(FIT)で出会ったふたりだが、ファッションにたどり着くまでには、長い道のりがあった。アブドゥルは、高校を卒業後、米軍でアパッチ・ヘリコプターの修理工をしていた。グレッグは、思春期のほとんどをスポーツをして過ごし、アリゾナ大学でビジネスを専攻した。FITから卒業したのち、アブドゥルはエンジニアド・ガーメンツで、グレッグはラルフ・ローレンで経験を積みながら、二人は時々会って、デザインについての意見を交換した。そして会合を繰り返すうちに、二人でブランドを立ち上げることを決めた。ディエゴ・ハディスがふたりにインタビューした。

ディエゴ:アバシ・ローズボローを立ち上げることになったきっかけは?

グレッグ: あるとき飛行機に乗っているときに、細身のスーツを着ている男性のフライト・アテンダントが、乗客のカバンを頭上の棚に載せようとした。ところがジャケットが邪魔をして、カバンを持ち上げることができなかった。だから彼は、バッグをいったんおいて、ジャケットを脱ぎ、バッグを収納して、それから再びジャケットを着用した。デザイナーとして僕は、それを見て「今、大変な間違いが起きた」とおもった。人間の腕は、頭の上に上がるように進化しているのに、この上着がそれを止めている。そしてその上着は、世界中の男性たちが日常的に着ているものだ。だから考えるようになった。「なぜスーツを着るんだろう?なぜこのスーツを変えることができないんだろう?」と。毎年、ただ塗装だけを変えた新車のように、同じスーツが作られ続けている。そこに進化はない。1870年、1880年のころとほとんど形を変えないまま、今もなお紳士服のスタンダードとなっている。細部を見ると、古い様式がそのまま残っていることがわかる。そもそも乗馬服と軍服をもとに作られていて、どちらも日常服ではない。軍服は肩をうしろに引き胸を張るように作られているし、ジャケットのカフスボタンは、かつての軍服の大きな金ボタンの名残りで、兵士たちが制服の袖で鼻をふかないようにするためのものだった。それがそのまま普及して、今では意味もなくついているただの飾りになってしまった。二つボタンのジャケットでも、ボタンをひとつだけ留める習慣は、エドワード7世のお腹が出ていて両方のボタンを留められなかったからという。100年以上も続くトレンドになってしまうほどの影響力が、エドワード7世の着こなしにはあったわけだ。今こうして余計なボタンがついているのは、王様がちょっと太っていたからで、それが着こなしのお手本になっている。まったく奇妙なことだよね。

ディエゴ: つまりその余計なボタンには目的はないと?

アブドゥル: その通り。
グレッグ: 時代は進んでいるのに、スーツは変わらない形でありつづける。たとえば、軍服の肩パッドは、体形を逆三角形に見せて男性らしく立派な肩幅があるように見せるためのものだし、さらにビクトリア朝時代にさかのぼれば、ラペルは、頭部が花の中心に見えるようにと、花びらのように仕立てられていた。でもすべて、もう今の時代にはそぐわないものだ。これを新たに進化させて、「現代に生きる男性のために、21世紀らしいテイラリングを考えてみよう」と僕らが思ったときに、なにから始めたかというと、スーツのパーツごとにそれぞれの必要性を考えてみることだった。そして不要な部分を取り除いていく。かつてのスーツは体のラインに合わせてデザインされたものではなく、ある種の拘束衣としてデザインされていたため、着る人を考えた作りの服ではないんだ。
アブドゥル: 僕らのアプローチは、マイナスの考え方。なにかを加えるのではなくて、なにを取り除くことができるのかを考えること。人間の体は数百万年かけて進化してきて、そのなかでベストなかたちになっている。そこで「どうしたら体のつくりを邪魔しないようなものを作ることができるのか?」と考えた。現代のニューヨークで暮らす男性、そしてひとりの人として、自分たちが衣類をどう着ているかを考えた。僕個人は、すべてのエレメントが調和する、重ね着、つまりモジュール式の着こなしが好き。僕らのコレクションを見ると、ルックがたくさんあると思うかもしれないけれど、使っているアイテムは実は同じなんだ。

ディエゴ: コレクションを見て初めはいろんなデザインがあるんだと思ったけど、実際は同じジャケットを使っていろんな着こなしをしていることにあとで気づいた。

アブドゥル: Eそういうこと。パーミュテーション(置換)のコンセプトなんだ。僕らの商品は安くはないけど、ジャケットを買えば二通りの着こなしができるし、シャツとジャケットは重ね着できるようになっていて、すべてが一緒に組み合わせられるようになっている。人間の体のようにね。僕らの体は組織、骨、腱といった層が何層も重なっていて、さらに表皮の下には筋肉、靭帯があって、それぞれが伸縮している。けれどもお互いに妨げあうこうとはない。すべてが重なり合っていてちゃんと機能している。
天然素材を使っているのもあって、暑ければ一枚脱げばいいと思うし、寒ければまた重ね着すればいい。ベースとなる服に、ドレスシャツやオーバーシャツを重ねてみたり、その上にジャケットを着たり。ジャケットはリバーシブルになっていて、ちゃんとしたきれいなシルエットで着ることもできるし、裏返しにすればちょっとしたグラフィックも入っている。昼から夜までシチュエーションに合わせて着られる。

ディエゴ:つまり、このコレクションは、本当にモジュラー式ということ?

アブドゥル: 自分たちにとってベストな表現方法だと思った。僕らがデザインするのは洋服の着こなし方。だから、「今シーズンはアメリカーナで、来シーズンは開拓時代の西部をテーマに・・・」というようなことではない。僕らのテーマは人間の体で、たとえば、iPhone 4に続いて新機能が搭載されたiPhone 4sや5が登場するように僕らはデザインしていきたいと思っている。シーズンごとに、微調整をしながら改善していく。これが最終形だということにはならないけれど、常に究極の形を求めて努力を続ける。細部にこだわって調整したり、試行錯誤を繰り返しながら、答えを見つけて、何を使うか、何を使わないのかを探っていく。今は、これが僕らの考えるコンテンポラリーなスーツだけど、でももしかしたら次のシーズンではもっと体にフィットするものや動きを調整したりするようなものを発表できるかもしれない。まだ進化の途中なんだ。

ディエゴ:これからも進化し続けるということだよね。

グレッグ: もし最先端のものを追求するなら、皮膚のような一着の大きなボディスーツを作ればいいけど、あまりにも極端なものになると現実離れしたものになってしまうから、あくまで現実的なラインを進化させていくべき。一着のスーツではあるけれど、それだけにはとどまらない。僕らがめざすデザインの方法は、すでに存在しているものをベースに、改善する。それこそがファッション・デザイナーとしての仕事だと思っている。デザイナーの多くが、自らの仕事をスタイリングすることだと思っているけどそれは間違っている。デザイナーの仕事は問題を解決することだ。
アブドゥル:実は最初に作ったプロトタイプは、最終的にできたコレクションより、ちょっと進んだ感じのものだった。でもちょっと後退することにした。なぜなら、みんながすでに持っているスーツを改良したものを作りたかった。スポーツウェアとフォーマルな装いのそれぞれが持つ良さをひとつにする。「ストレッチ素材100%の生地でジャケットを作ればいいじゃないか」という声もあるかもしれない。もちろんそれは簡単だけど、ストレッチを優先して生地を選ぶことになる。そこで僕らは人間の体のことを考えた。堅いところ、柔らかいところがあって、伸びたり縮んだりもする。(ブレザーを着ながら)このジャケットはコットン100%で、伝統的でナチュラルな仕上がりになっているけど、動きやすくするために脇の下にニットを使っている。飛行機で見かけたフライト・アテンダントの姿をきっかけに作ったもので、彼のジャケットの場合、上下の動きを想定せずに仕立てられたものだったから、僕らはストレッチ素材をこの脇の下の部分に使うことにしたんだ。

ディエゴ:すべて天然のストレッチ素材なんだよね?

アブドゥル: そう。
グレッグ: 化学繊維を使わないということにもこだわっている。人間の体と同じように、天然繊維も長い年月をかけて進化してきた。僕ら人間はドライ・フィットなら長く使っていけると思っているけれど、実際にはポリエステルと変わらないし、そのものにほかならない。ウールはどんな合成繊維より質がいいし、コットンだって同じだ。

ディエゴ: 良さはすでに証明されている。

アブドゥル: その通り。当たり前のことに開眼させられるときがある。自然はそのままで完璧な存在。生態系、そのなかで進化を遂げてきたもの、それらが調和して共生している。親水性があり、温度と湿度が調節できるようにと長い年月をかけて進化してきたウールがあるのに、どうしてゴアテックス素材のようなものを開発しようとするのだろう?
グレッグ: 昔ながらの仕立て方のなかで僕らも続けているのは、hymoという100%馬の毛を使用したハンド・キャンバスだ。ジャケットの前身頃は、これを使って、手で仕上げられている。140年前と同じ方法で、男性的なフォルムを仕立てるのにいいと思った。少したるみがでるけれど、スーツに求められる力強さというか重々しさがでると思うから。
こうした試行錯誤をくり返していくなかでわかったことは、不要な部分を取り除いて内側をきれいに仕立てることで、折り襟や肩パッドもないからリバーシブルにできるということ。まずは同じトーンの裏地を使ってみたんだけど、「もうちょっと斬新なアイデアで遊び心を加えられるんじゃないか」と思ったんだ。ひとつはモノクロでコンサバ、反対側はよりファッションらしく。
さらに、使いやすくするためにストラップもつけている。古いハンティング・ジャケットによく見られるもので、たとえば、美術館に行ってジャケットを脱ぎたくなったとき、手に持ちたくなければ肩にかければいい。

ディエゴ: 僕らが着ているスーツのルーツが過去にあるという意味では、このコレクションは未来的かもしれないけれど、実際にはコンテンポラリーということなんだよね。

グレッグ: その通り。誰かしらが「スーツは進化するものだ」と声をあげて動き出さなければいけなかったんだ。2100年に、まったく同じスーツを着ていることはありえない。それに一度僕らのスーツを着てもらうと、着心地のよさはわかってもらえる。ファッションで自己表現をするというよりも、僕ら人間は心地よさのほうにシフトしていっていると思う。それは食べ物にも、住まいにも言えることだと思う。「着ていて心地よいうえに、かっこよく見える」っていうのがポイント。

ディエゴ: アバシ・ローズボローの立ち上げにいたるまでに、FITを卒業してからはどんな経験を?

アブドゥル: 僕はエンジ二アド・ガーメンツのアシスタント・デザイナーとして採用されてしばらく働いたあと、ネペンテスのストアで働いていた。日本人が多いEGから、学ぶことが多かった。実際に何かをするんじゃなくてまずは観察するところから始める、それが実はとても重要で、ものを見る目が養われたと思う。デザイナーとしてはまずは全体的なデザインをしたいところだけれど、ディテールこそ日本人が得意とするところで、そういう部分は今僕らが作っている服にも生きていると思う。ディテールにこだわっているし、ディテールこそが服を作ると思っている。

ディエゴ: グレッグは、ラルフ・ローレンでの経験からどんなことを学んだ?

グレッグ: 言うまでもないけど、ブランディングの重要性。それからポロのデザイナーとして学んだ一番大切なことは、すべてはストーリーテリングだということ。ラルフは優れた語り部で、彼のストーリーは必ず場所、そしてシチュエーションをもとにしている。もしサファリに行くなら、バルバドスに行くなら、アラスカに行くなら、イギリスで狩りをするならーーそれがどこであったとしても、ラルフは服を通してそのときの気持ちをとらえて表現する。そこから感じられるストーリーが人を惹きつける。それから「最高の素材を選べ」ということ。それと反面教師的なことは、例えばポロシャツやラグビーシャツからポロのロゴを取ってしまえば、それがポロなのかカルバン・クラインなのかトミー・ヒルフィガーなのか、高いのか安いのかなんてわからないってことだ。ブランドが違うだけでほかは全部同じ。だから「自分たちのロゴをつけるだけで誰でもデザインできるようなものは、もう二度デザインしたくない」と思ったんだ。僕らのブランドのロゴを外したとしても、これが僕らのデザインしたものだとわかるもの、それが僕らの作る服なんだ。
アブドゥル: デザインによってブランディングする。ただ見るだけで、どこのブランドかわかる。リック・オウエンスやヨウジ・ヤマモト、それからコム・デ・ギャルソンもそう言える。彼らのデザインを見れば、「これはたぶんコム・デ・ギャルソンだよね」とわかる。裁断の仕方とか、そのユニークさとかから。僕らもそうありたいと思う。ロゴだけでブランディングされるものじゃなくて、ただ見るだけでわかるものを作りたい。「アバシ・ローズボローらしい感じだよね」なんて言ってもらえるように。

 

10.01.2013

 
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EVERYBODY STREET: NYC the MUSE

シェリル・ダン インタビュー

Interview: PERISCOPE / All images courtesy of Cheryl Dunn

これまでストリート・カルチャーを題材に、写真や映像を撮り続けてきたシェリル・ダン。2010年に、サウス・ストリート・シーポート・ミュージアムがアルフレッド・スティーグリッツ展を行った際に依頼を受けて、ストリート・フォトグラフィーをテーマにした短編のドキュメンタリー映画を発表した。数々の巨匠たちが登場して写真について語る「Everybody Street」は写真ファンを中心に大歓迎をうけ、シェリルはそれから3年をかけて、この映画を長編に拡大した。11月11日にニューヨークでプレミア公演され、ダウンロードが開始される新バージョンの「Everybody Street」は、ブルース・デビッドソン、エリオット・アーウィット、ジョエル・メイヨウィッツ、メアリー・エレン・マーク、クレイトン・パターソン、リッキー・パウェル、マーサ・クーパー、ブギー、リュック・サンテなど写真の大家たちが登場するだけでなく、写真家たちの目を通してニューヨークの歴史をたどる作品になっている。ファイナンシャル・ディストリクトのスタジオで、シェリルに話を聞いた。

最初の作品は、アルフレッド・スティーグリッツにからめて作ったということだけど。

サウス・ストリート・シーポート・ミュージアムが、新しいタイプのオーディエンスを獲得したがっていて、私の友人が雇われた。サウス・ストリート・シーポート・ミュージアム周辺は歴史的におもしろいエリアで、ミュージアムの建物も魅力的。船員用のホテルだった時代の床が発見されたり、1700年代のグラフィティが壁にあったり。ミュージアム自体もニューヨークならではの興味深い歴史的遺物を所蔵している。このあたりには、50年代から70年代にかけて、多くのアーティストたちが住んでいて、ダニー・ライオンの名作「Destruction of Lower Manhattan」の題材にもなった。フルトン・フィッシュ・マーケットという魚市場があったから、卸業者やギャングたちが活発で、騒然としたエリアでもあった。みんな知っているように、のちには世界貿易センターが2回攻撃の対象になったこともある。友人からの電話でアイディアはあるかと聞かれて、「ストリート・フォトグラフィーについての映画を作りたい」と答えた。自分が尊敬する写真家やアーティストたちの映画を作れたら「どんなドリーム・プロジェクトになるだろうか」と思った。スティーグリッツは、4X5のカメラを三脚からはずして、ストリートを歩きまわって、ニューヨークの橋が建設されたり、移民が入ってくる様子をドキュメントした最初の写真家の一人だったから。今も生きていて、ニューヨークのストリートを題材にした作品を作ってきた写真家たちの言葉や作品を通じて、歴史的な映画を作りたかった。そうやって最初の作品ができた。

長編にしようと思ったのは?

ブルース・デビッドソンと3時間という時間を過ごして、短編ではその5分しか使えなかったから、まだ相当な量の映像が残ったし、オーディエンスの反応を見て、もっと見たいと思ってもらえたと感じた。だから2011年に撮影を再開して、追加したかった写真家たちに声をかけて、一夏を費やした。秋にはいったんカメラを置いたけれど、クリスマスの前日、エリオット・アーウィットが参加してくれることになって、ブギーもあとで参加してくれた。問題は会いたい題材に声をかけ続けると、いつやめればいいのかわからくなるってことだった。

映画は、写真ファン以外の層のことも考えて作った?

そう。技術的な内容にならないように意図した。取材のときには、技術的な質問もしたし、自分としても彼らがどんなカメラを使ったかにも興味があったけれど、物語を構築するうえで、技術的な側面は比較的おもしろくないように感じられて、写真家の心理や、彼らがどうやって動いたか、ニューヨークについて、といったことにシフトした。13人のキャラクターが登場しながら、わかりづらくない映画を作るのは困難な作業だったから、キャラクターたちを織り込むのではなく、歴史について、技術について、危険性についてというように、トピックごとにセクションを作った。

結果的にストリート・フォトグラファー以上のものがテーマになった?

結果的に、ニューヨークという街がキャラクターのひとつになった。たとえばハリケーン・サンディのような災害が起きたとき、ストリートに出かけていって、街の記録をカメラにおさめる人たちがいなかったら、この街の歴史は同じように語られることはない。加えて、ニューヨークの建築的側面、物理的側面もテーマのひとつになった。登場するアーティストたちにとって、ニューヨークはミューズで、彼らはこの街に愛情を持っている。歴史のセクションでは、アート・フォーラムの編集者だったマックス・コズロフが、30年代とか40年代に使われたような形容詞を使ったりして、完璧な英語で、ウィリアム・クラインがなぜニューヨークにきたかというような話をしてくれたりね。ニューヨークの写真家は、問題を抱えている。いつでもニューヨークに写真を撮るためにやってくる人々はいつも絶え間なくいて、1週間離れると、「あのビルはどこにいっちゃったの?」というようなことがよくある。いつも変わり続けている。人々は常に出たり入ったりしていて。だから他の都市とは比べ物にならないような、ストリート・フォトグラフィーの歴史があって、理由はわからないけれど、ストリートのエネルギーがある。

誰もがインスタグラムで瞬時に写真をアップする時代にあって、パイオニアたちと話をして、写真についての考え方は変わった?

誰もが電話やデジカメをもっていて、いつも写真を撮っている。ある意味「誰もがフォトグラファー」という考え方もあるけれど、それは違うと思う。みんなが「ピクチャー・テイカー(写真を撮る人)」になっただけで。フォトグラフィーは、写真を撮るだけの作業じゃない。撮った写真で何を伝えるかという問題があるから。写真を撮るという作業は、フォトグラフィーの半分にしかならない。私はあるアートの形態が、別のアートの形態にとって替るとは思わない。テクノロジーに何が起きても、アートの形態は存在し続ける。アクリル・ペイントが登場しても、油絵は存在し続けるし、ただ別のものが登場するということ。白黒のテレビ、カラー・テレビ、モノクロの映画、みんな存在するから。今あるデジカメを使えば、50フィート四方のビルボードに使えるだけの写真が撮れるけれど、写真のアート性には、編集作業や、無数に存在するフレームのなかから、自分の表現を見つけるということもある。だから、今みんながやっている「写真」は、新しい表現法ともいえる。ときどきミュージック・フェスティバルに撮影に出かけて、カメラを持った多くの人間に紛れることがあるけれど、最前列で、フィルム・カメラをもった人、特に若者を10人とか15人見ることがある。イーベイでフィルム・カメラを安く手に入れたんでしょう。彼らは他のみんなのようにはなりたくないし、ユニークな存在でありたい。それがおもしろいし、フレッシュに感じられてる。

映画を作るので一番難しかったのは?

去年の夏、一番暗い時期を体験した。長編映画を作ることは、赤ちゃんを作るようなことで、編集に9ヶ月かかるというけれど、私の場合はもっと長くかかった。夏の最後には、ひとりぼっちで1日も休まずに作業をしていて、それもものすごく暑い夏で。編集していなかったら、自分は何をやっているだろうと想像した。きっとニューヨーク・タイムズを読んだり、ビーチで寝てしまったり、一杯飲んだりしているだろうと思ったら「ビッグ・ディールじゃない。長編映画を作ってるんだから」と思えた。

一番良かったことは?

一番好きだったのは、30分しか時間をもらえなかったはずなのに、でも結局、そのサブジェクトと何時間も過ごせたこと。大家たちは扱いが難しいと言われたりして、でも会ってみるとすごくスイートだったり。過去に何度となくインタビューを受けてきた人たちだから、下調べをせずに、みんなと同じ質問をしたら、シャットダウンされる。たとえばエリオット・アーウィットのときには、今まで書かれたインタビューにはすべて目を通した。無知に見えないように、この手法に磨きをかけた。そのチャレンジと、うまくできたときの喜びが好きだった。それが一番楽しかった。

サブジェクトはあなたのことを一人の写真家として見たと思う?

自分のエゴに惑わされてはいけないと思ったし、自分のことは話さなかった。彼らのことを話すためにそこに出向いたと自覚して。でも自分が写真家として撮影にいくときはちょっと違う。たとえばポートレートを撮るのに数分しかもらえなかったときは、自分の弱さをちょっとだけ見せたほうが信頼してもらえる。信頼関係を構築する時間がないときには、人間としての弱さが早く機能することがある。

写真家たちの間には、同胞意識があるように感じられることがあるけれど。

そうね、でも写真家は競争意識も激しい。取材した一人の写真家が、撮影の翌日に「あのパートは使わないでほしい」と電話をかけてきたことがあった。私が「他のフォトグラファーと遊ぶことはありますか?」と聞いたときに、「フォトグラファーは潜水艦みたいなもので、なるべく互いにぶつかりたくないんだ」と笑って言ったセリフだったんだけど。競争意識が激しくて、それがリアル。

この作品を作ったことで写真家として、影響されたと思う?

素晴らしい教育を受けたと思う。大学院に行ったみたいな感じ。大学院で過ごす何年間に学べること以上のことを学んだかもしれない。この映画に登場するフォトグラファーの数人は、60年以上のキャリアをもっていて、そういう人たちに登場してもらえたことをすごく幸運に感じている。そして、最後にできたものは、ニューヨークの写真の歴史をバランスよくまとめられたと思う。  

Links

http://everybodystreet.com/

http://www.cheryldunn.net/

10.30.2013

 
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A LIFE OF A CINEMATOGRAPHER

あるシネマトグラファーの人生 村上涼

Edit: Takeshi Fukunaga

撮影監督(シネマトグラファー)という職業に就く人たちについて、私たちはどれだけのことを知っているだろう? 映画の完成度を左右する魔術師のような存在なのに、一般の観客がシネマトグラファーのクレジットに注目することはほとんどない。村上涼さんは、映像クリエーターたちが一緒に働きたがる「魔術師」のひとりだったという。長編映画「Out of My Hand」の撮影のために訪れていたリベリアでマラリアに感染し、今年6月29日にこの世を去ったという村上涼さん。PERISCOPE編集部は、亡くなってからはじめて、多くの人に愛され、その才能が惜しまれる村上さんのことを知った。今、村上さんの友人や家族たちが、彼の残した遺作を通じて、彼の人生を祝おうとしている。村上さんとリベリアで「Out of My Hand 」を撮影していた福永壮志さんの協力で、映画関係者が寄せてくれた追悼文をここに掲載したいと思う(PERISCOPE)。

ドナリ・ブラクストン(映画「Themes From a Rosary」監督   「Out of My Hand」プロデューサー)

誰かに教えてもらうことはできないけれど、一部の人間だけがどういうわけか習得することのできるトップクラスのリーダーシップというものがある。村上涼は、リーダーだった。それは生まれつきの気質によるものだけではなくて、研ぎ澄まされた自己鍛錬と目的意識、そして人間として、職人としての誠実さが融合してできたもので、類まれない意識がある者だけに手が届く種類のリーダーシップだった。今、涼という人間の決定的な資質は、彼がとってきた選択にあったのだと、心のどこかで感じている。涼の視点を通して見た世界には、涼のレンズを通して映しだされた世界と同じように、恣意的なものや受動的なものはなかった。

涼には、人の警戒心を解き、触れた人間とすぐに親密な関係を築ける能力があった。シンプルでカジュアルな会話においても、彼がそこにいるという存在感には特筆すべきものがあり、自分が彼にとって大切な存在だという気持ちにさせてくれた。涼は、自分の資質を、作るアートから切り離すことはできなかったから、その映像には、あたりまえの世界が急に劇的に独特ではっきりした輪郭を描きはじめ、「今」という概念と意味があふれて見えたり、涼のレンズが捉える被写体が、その様相や秘密をさらしてしまうことがよくあった。涼は人生においても仕事においても、貪欲に目を光らせ、忍耐強く耳を澄ませた。その激しさにおいても、落ち着きにおいても、素晴らしかった。周りの人間は、彼から学べることを学ぼうとした。

涼は、自分も敬愛してやまない妻と元気な二人の子供たち、そして妻のお腹にもう一人の子供を残して去った。涼の家族とは、これから先もずっと関わりを保って行きたいと思っている。日々、彼の不在を寂しく思う。

ケビン・ハンロン&ダニエル・カラシーノ(映画「Bill W.」監督)

ドキュメンタリー「Bill W.」を作るのに8年以上かかった。70人以上をインタビューし、巧妙な再現シーンだけで30時間以上の映像を撮った。涼は、最初の撮影監督ではなかったけれど、最後の撮影監督になった。涼を見つけるのに何年かかかった。映画に使われた映像の大半は涼が撮ったもので、涼がいなかったら同じ作品にはならなかったはずだ。

涼はアーティストとして、ひたすら美しい映像を創りだした。ストーリーを語るために、どうイメージを構築すればいいのかを理解していた。生まれながらに人に対する思いやりと、洞察力とビジョンを持っていた。それを言葉だけで説明するのは難しいけれど、真のアーティストを区別するものはそこだと思う。涼を知る人なら、見逃すことはなかったはずのこの資質は、彼が作った作品のすべてに流れていて、彼を知らなかった人にも感じ取ってもらうことができる。

ケビンと涼は、初めて仕事をしたときに信頼関係を築き、それが作品を完成させるのに必須だった。ダンが涼にあったのはその直後で、また同じように信頼関係ができた。

奇妙に聞こえるかもしれないけれど、その信頼関係の中心にあったものは愛である。僕らは涼を愛していた。撮影監督としてだけではなく、一人の人間として。彼のことを心から惜しんでいる。

蜷川実花(アリシア・キーズ「Girl On Fire」監督)

「これでアメリカで撮影する時困らないな」、涼くんと初めて仕事をした時に思いました。これからたくさん一緒に仕事が出来ると。そういった人に出逢えるということは宝物のようなものです。本当に悲しすぎて言葉にならないです。もっともっと一緒にお仕事がしたかったです。心からご冥福をお祈りします。

ローレント・フォアシェリ&アントワン・ティングリー(映画「1956」監督)

これまでしてきた仕事のなかで、一番エキサイティングだった2つの作品で、涼と仕事をすることができた。ニューヨークで短編映画「1956」を撮影しているときに会った。何人か、撮影監督にインタビューをして、涼が一番の適任だとわかった。彼の技術、照明の鋭いセンス、ストーリーテリングに対する情熱が、すぐに僕らを誘惑した。涼の素晴らしいユーモアのセンスや、愛すべき人間性は、長居仕事の日々を、楽しむべき、忘れがたい瞬間に変えてくれた。涼の素晴らしいユーモアのセンスとか、愛すべき人間性がその次にきた。

撮影を始めたら、すぐに他のプロジェクトにも参加してほしいと認識した。その次は、ヴァシュロン・コンスタンタンの仕事でプラハでの撮影だった。プラハとローザンヌに1週間以上逗留しなければならない大変な仕事だったけれど、そのときに彼と貴重な時間を過ごすことができた。

涼、君のことは決して忘れない。Adieu l'ami !

ブランド・かおり(ドキュメンタリー作品「Standing Strong」監督)

涼君と卒業後初めて一緒にした仕事は国連大学とWHOのドキュメンタリー作品「英知への歳月」でした。その後も国連大学や環境省など数多くの作品の撮影をしてもらいました。極寒の知床半島、東北の被災地、インドの山奥。彼独特の感性と卓越した技術、知識、そしてディレクターへのサポートと対象物、人物、その土地へもの愛情で生まれる映像は作品に深みを持たせてくれました。誰にも変わりが出来ない特別なカメラマンで大切な友人でした。たくさんの素晴らしい画をありがとう。

セリーヌ・ダニエール(映画「Blank City」監督)

涼は、素晴らしく才能ある撮影監督だというだけでなくて、一緒にはたらいた者の人生に必ず影響を与えることができる人で、寛大で、思いやりがあり、インスピレーションを与えてくれる存在でした。映画「ブランク・シティ」は涼がいなければ不可能だった。彼を失ったことは、映画界にとって多大な損失です。涼が残した作品群を通じて、また彼の素晴らしい子供たちと家族を通じて、涼の人生を祝福できることに感謝の意を表したい。

佐藤浩太(アリシア・キーズ "Girls on Fire"照明  映画「Pan Cake」照明)

涼君とは、2006年に、映画のNYロケで出会いました。共にアシスタントとして頑張っていました。異国の地NYで戦う姿に感心と羨ましさを感じました。

それから4年後の日本で、インディーズの映画でメインスタッフとして、偶然再会しました。酷く暑い夏でしたが、とても素敵なひと月でした。そして去年、又も偶然NYでアリシア・キーズのPVを一緒にやる事が出来ました。その晩の祝杯の美味さは格別でした。お互いステップアップしている。これから沢山、一緒に素敵な仕事が出来ると期待してました。楽しみにしてました。忘れません。彼の余裕の笑顔、素敵な画、一緒に飲んだ楽しい時間。悔しいですが、安らかにお眠り下さい。

ジェフ・フォルムシー(HBOドキュメンタリー「The Collector」監督)

涼は、亡くなった同胞だ。彼の存在を心から惜しんでいる。自分が監督・プロデュースしたHBOのドキュメンタリー「ザ・コレクター」では、大切なコラボレーターになってくれた。どんな日だろうと、何があろうと、涼が仕事のあらゆる局面に捧げてくれたユーモア、プロフェッショナリズム、才能、そして献身を、僕はいつまでも大切に思い続けるだろう。あの現場でMVPがあったとしたら、その賞は涼に与えられたばずだ。

どんな作品を作る過程にもドラマはつきもので、日々問題が起きるけれど、大切な場面ではいつも前に進み出て、静かにその問題を解決してくれる涼をいつも頼りにしていた。REDというカメラでの撮影を希望したものの、前例がなく渋っていたHBOに対して、打開策になったのが、技術部とのミーティングでの涼の意見だった。現場ではどんな問題が起きても、完全な集中力でそれを解決しようとする涼が、振り返ればそこにいるという事実が、自分にとってどんなに安心材料になっただろう。ポスト・プロダクションでは、いつも涼と二人で、色調整の作業をするのを楽しみにしていたものだ。

けれど、最終的に、涼について一番思い出に残っているのは、彼がいつもすぐに笑顔をくれたこと、何をしていても、人間らしい瞬間を見つけてくれたこと。いつも無理せずにポジティブでいることができて、何においても可能性を信じ、戦いの価値を信じていた。彼がいないことをひどく寂しく思っている。

デルフィーン・ディリー(「Far From Iraq」監督)

涼を亡くしたことに無限の痛みを感じる一方、そこに価値があったのだと信じる方法を探している。シネマは自分にとって意味を失ってしまったのだと恐れている。けれど、つい先日、美しく奇妙な映画の上映会からの帰途、涼のいないシネマの世界を「生きる」自分の能力を疑いながらも、涼だったら、自分にあの場所に戻ってほしいと願ったかもしれないという気持ちになった。私、涼、マイクという、ばらばらの国と文化からやってきた3人の若者が、小さい街出身だというだけを共通項に、ブルックリン・カレッジの映画学部で、どういうわけか出会い、映画を作るようになったときの自分たちに、涼だったら戻ってほしいと願うのではないか。自分のやりたい、考えたい、見たい、探したいという衝動や好奇心は、足跡をたどると、あの頃に始まる。あのとき、あの場所は、自分の精神、心、魂の中にあり、疑いがもたげたとき自分がいつも戻れる場所となっている。私たちが出会い、希望を抱き、映画を作り、笑ったりしたあの場所は、決して忘れることのできない、ディープで、ファニーで勇敢で、インスパイリングな方法で、自分の能力を伸ばし、影響を与えてきた。今、これまで以上に、あの場所が行くべき場所になっている。

マイク・フォックス(映画「Out of My Hand」プロデューサー)

忘れられない存在。

尊敬に値し、思いやりがあり、献身的で、勤勉。

才能にあふれ、オープン・マインドで、感謝の気持ちを持ち、強く、善良で、寛大。

インスピレーショナルで、批評の目と主張を持ち、謙虚で、愛情深く、ロックなやつで、コラボレーターで、仲間であり、人の言葉に耳を傾けるリスナーであり、冒険者で、生徒でありながら指導者。

日本人で、ニューヨーカーで、息子であり、兄であり、父親であり、夫であり、シネマトグラファーで、アーティストで友人だった。

愛されて、惜しまれている。

ジョナサン・ターナー(Glasser “Design” 監督)

上映室の窓からいつものように光が挿したとき、あの日は、光が涼を明るく照らしていた。涼が、自ら制作していた、リベリアのゴム農園の労働者についてのドキュメンタリーのラフ カットを見せにきたときだった。ブラインドを閉めて、プロジェクターが音を立てて命をもったとき、僕はオープニング・シーンに魅了された。ゴムの木の木陰 に、ひとりの男がいた。なたが木の幹にあたり、乳白色の樹液が流れだした。シーンは、荒廃した労働者たちのキャンプ場がある未舗装の道に移った。灼熱の太陽のしたでうめき声をあげる女性がいて、だらりとした乳児の遺体を抱いている。シーンは、今度は、組合化の利得についての会合の前で話をする美しく活力のあるリベリア人男性のミディアム・ショットにシフトした。

涼を失ったことで一番つらいのは、彼のヒューマニティを失ったことだ。東北大震災のときには、もちろん直後に福島で撮影をしていた。涼が撮影監督として美しい目をもっていたとか、現場でいつも冷静だったとか、自分のドキュメンタリーを撮るため、知られざる森林の中を機材を何日でも抱えて歩くことができたとか、そういうことだけじゃない。どこに行くにも、深い人間味を持って、究極的には、僕たちはみんな、互いを助け合うための旅をしているのだということを教えてくれた。アーティストの尊厳をもって、自分たちのヒューマニティについて考えさせることができる何かを作り出せるのは美しいことだ。涼は、仕事を通じてそれを頻繁に成し遂げたし、僕らは生きているかぎり、彼の作品を楽しむことができる。一番恋しいのは、彼の身体、あの輝き、あの笑顔だ。

ジャッド・アーリッチ(映画「Run For Your Life」監督)

初めて涼に会った時、涼の逆立てた髪型と皮パンツ姿は、自分が青春時代を過ごした頃のニューヨークのダウンタウンから飛び出して来たようだった。その後、彼のクールな外見の下には、探究心と誠実さにあふれた内面があることがわかった。僕たちは友達になり、自分が映像制作会社を始める事を決めた時、涼にパートナーになることを頼んだ。

涼とは、何年もの間に、数本の長編ドキュメンタリー映画を含む数えきれないほどのプロジェクトに一緒に取り組んだ。涼はお金や名声のために作品を作ってはいなかった。涼が目指していたのは、彼自身が授かったもの、つまり才能とヴィジョンに対して誠実でいようとすること、そして見た人を変貌させてしまうほどの力の持ったイメージとストーリーを創作するためだった。涼はそれに成功したし、彼の作品はこれから何世代にも渡って人々に影響を与え続けるだろう。

涼がアーティストとして与えた影響もさることながら、彼が残した家族や、生前の涼を知り、彼から感動を受けた世界中の人々は、涼の残したものの存在の大きさを感じ続けるだろう。涼はあまりにも早くこの世を去ってしまったが、これからもずっと、涼の友達になれたこと、コラボレーターになれたことを感謝し続ける。

*遺族は、残された子供達のために村上涼の築き上げた人々の繋がりを残すことと、人々に彼の作品、功績を伝えることを目的に、facebookウェブサイトを通じて情報を発信し続けている。    

 

11/11/2013

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WILD WORLD OF NATURAL FRAGRANCE

パフュームのコンセプトを覆す天然フレグランス

Interview: PERISCOPE / Photography: Ports Bishop / Transcription: Kana Ariyoshi / Translation: Junki Ikeda

都会を離れたとき、初めて都会特有の匂いに囲まれていたことに気がつくときがある。世界で唯一の「ワイルド・フレグランス」ブランド、<ジュニパー・リッジ>は、ビッグ・サー、モハベ・デザート、ユバ・リバーといった大自然の名所からもってきたハーブ、木、マッシュルームなどを使って抽出した香りの商品で、都会にいながらにして、自然の香りを体感させてくれる。<ジュニパー・リッジ>のファウンダー、ホール・ニュービギンに話を聞いた。

フレグランス・ブランドを始めた経緯は?

僕はポートランドで育ち、高校生の頃はよくバックパックで旅に出ていた。大学に通うためにニューヨークにやってきて、ニューヨークは心から好きだったけど、西海岸を恋しく思っている自分に気がついた。僕の中には、カリフォルニアや北西部の太平洋沿いの地域にある、気持ちよく、豊富な生態系、そして森林の奥に広がる大自然を渇望していたのだろう。大学卒業後、サンフランシスコに移り、家の塗装をしたり、派遣社員として働いたり、父の手伝いでスプリンクラーの販売をしたり、いろんな仕事をした。あるとき、植物療法に通うことにした。そこで医療目的の野生のキノコや野生植物の収穫のやり方を学んだ。そこから、シロップやジャム、お茶を作るようになった。友達のために作っていたんだけれど、彼らに励まされて、90年代の終わり頃から、ファーマーズマーケットで販売を始めた。

ジュニパー・リッジ>の最初のプロダクトは何だったの?

最初に作った商品は、インセンス(香)と石けんといったいたってシンプルなものだった。それから収穫したセージの束を作ったり。最初から、僕がやりたかったのは、石けんメーカーやお香メーカーになるということではなくて、山の中にいるような気分を、人々の家庭に届けることだった。いまだに、ジュニパー・リッジが目指しているのは、そこから変わっていない。最近は、サステイナブルな方法で天然の原料を、大規模に収穫するために米国農務省林野部と協力している。また、昔より機能のいい蒸留設備を手に入れることができて、以前より洗練された方法で、フレグランスを抽出できるようになった。

つまり自然を消費者に届けたいということ?

そう。山にいるのが大好きなんだ。たとえばきのこを採る人たちは、自然のなかで四つん這いになって、自然に同化する。ただ森の中を歩いたり、山で走ったりするだけじゃない、自分の五感、動物的な本能を呼び覚ませば、自分の中で何かが目覚める。その本能は誰の中にもあって、いつ目覚めてもおかしくない。僕ら人間を進化させてきた要素の一つであって、それはニューエイジ的な概念とか、スピリチュアル的な概念ではなくて、人間も動物だから、自然と関わりあいながら進化していくというだけのこと。自然の中で五感を使うことで、人間の中に潜んでいる本能が目覚める。

すべて自然素材でフレグランスを作るのは難しくなかった?香りを持続させるには化合物を使わなければならないと聞いたことがあって。

それはひとつのコミットメントではあるね。商品を作るために外部の業者の人工的な香料を買ったことはない。もし材料がほしかったら、ブーツを履いて山に採りにいくよ。1樽300ドルの劣悪な化合物を5ガロンドラムで提供したいという人たちから毎日オファーがあるけど、もしそれを使ってしまったら、自分たちの商品ではなくなってしまう。ビッグ・サーの香りではなくなってしまうんだ。皮膚のうえで長続きする香料を作るということでいうと、一日中持続する香りじゃなくてもいいと思っている。僕らのフレグランスは、持続しないし、甘い香りでもない。何時間か香りがして、いつか消えてしまうというところが気に入っている。本当のフレグランスはそうあるべきだ。

ある意味、今考えられている香水作りの概念を変えようとしていると。

その通り。どうしてフレグランスは、香水カウンターで売られる、奇妙な存在になってしまったんだろう? フレグランスは本来動物的な感覚を呼び起こさせるものだったはずだ。古代ローマ人は、ローズマリー、ラベンダーのような地中海周辺で採れる植物とオイルを煎じてタロイモケーキのようなものを作っていた。そして頭から香りをかぶり、体から香りを出させていたんだ。香りを自然と身に纏っていた。香りは、本来、自然を体に纏うためのもので、フレグランスを、かつての天然のルーツに引き戻そうとしている。

アルティザンのカルチャーが最初に盛り上がったサンフランシスコで、90年代の終わりごろから始めたというのがおもしろい。東海岸では、2007年か2008年頃になってようやく追いついた印象だけど。

同時期にジェームズ・フリーマンがブルーボトルコーヒーを始めたけれど、同じようなことをやっている人の数は決して多くなかった。今はアウトライアーのエイブとタイラーやアート・イン・ザ・エイジのダンのような人がいるし、シアトルにはフリーマン・コーツがある。同じことを、アルコールで表現したり、バックパックを作ることで表現したりしている人がいる。みんな、ハイカーやバックパッカーで、互いのことを見つけることができる。最高のピクルスを作ったり、いろんな人たちが、いろんなものを作っている、ブルックリンで起きているようなことが、いたるところで起きている。笑っちゃうようなこともあるし、テレビ番組「ポートランディア」は、そんな現象を皮肉っているわけだけれど、やりすぎで笑ってしまうこともあるけれど、でも美しいことでもある。今、これだけのことが起きていることは素晴らしいことだと思うし、みんな、素晴らしきアメリカのブランド。今起きていることは、アメリカがヘリテージ(遺産)を取り戻して、未来に継承することのできる商品を作ろうとしているんだと思う。

でもそんな動きは、香水業界では起きてこなかった。

香水業界は、50年代から70年代あたりから止まっていて、他の業界に比べたら40年くらい遅れている。コーヒーで起きたサード・ウェーブのカルチャーや、地元の食を食べようという「ロカヴォア」のムーブメントは、他のあらゆる産業でも起こっていたけれど、香水業界では起きていないんだ。古いフランスのフォーミュラをいまだに使っていて、使える材料の種類はわずか150種類、ルールに従っていると20〜30種類の香水しかできない。カリフォルニアだけでも8000種類以上の植物があるのに、香水の世界ではまったく使われていないんだ。

ジュニパー・リッジの香りは、焚いたときに、まるで森の中をハイキングしているような記憶を喚起させてくれる。特にニューヨークのような大都市に住んでいると。

それを「アロマティックスナップショット」と呼んでいる。自然の美しい光景は、ある瞬間には存在して、すぐになくなってしまう。たとえば花粉のシーズンを見逃すと、次の年までその瞬間はやってこない。人生と同じように、美しくてはかない。僕が残りの人生をすべて費やして、パフュームを作り続けても、終わらないくらい自然は大きい。自分がいちばん楽しいのは、自然に入り込んで、その終わらないパズルに挑戦し続けること。残りの人生、毎日、歩き続けても、体験できるのは、大自然のほんの一部だ。だから、自然の原料を使って香水を作る人が他にもでてきてくれることを願っている。ここで一日中香水作りの技術を披露してもいいし、経験談を話してもいい。他の人たちにもやってほしい。豊かな香りの世界が広がっていて、発見されるのを待っているんだ。

11.20.2013

 
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SPREADING THE EDIBLE EDUCATION

アリス・ウォーターズ、インタビュー

Interview: PERISCOPE / Photography: Michael Piazza, Daniel Dobers : Translation: Aya Minami

ローカヴォア(地元産の食材を食べる運動)から「ファーム・トゥ・テーブル(農地直送)」まで、私たちの食に対する意識を変えてきたムーブメントの大半は、アリス・ウォーターズが1971年にオープンしたレストラン「シェ・パニーズ」でやってきたことに、そのルーツがある。そのアリスが、ここ数年、「エディブル・スクールヤード(食べられる校庭)」というプロジェクトの拡大に尽力している。カリフォルニア州バークレイのある学校からスタートし、今ではアメリカ全土に広がりつつあるこのプロジェクトは、学校に農場を導入することで、食材の育て方と食べ方を子供たちに教えるものだ。このプロジェクトを全世界に広めようとしているアリスが、自身の想いを語ってくれた。

あなたが各地の学校に広めようとしている考え方について教えてください。

私が伝えようとしているのは、真新しいアイディアではありません。私たちの文明と同じくらい古いものです。自分たちの体に良い食材を育てる、自分たちに栄養を与えられる方法で、また次世代のことを考えながら土地を耕すという考え方で、たとえば旬のものを食べること、家族や友人と一緒に食事をすること、農家の人々を大切にして、大自然こそが私たちの魂のふるさとだと理解すること、そういった食との付き合い方です。それに比べたらずっと新しいファストフード文化、私たちはある意味捕われてしまっています。私が伝えようとしている古い価値観は、私たちの体の中にあるもの。でも、私たちは、こういうことは大して重要じゃないと教えられてきました。何でも手早く簡単でなければ、と。過去や未来に気を配る必要はない、ただ消費し続ければ良い、食材の産地は関係ないし、料理は退屈でつまらないもの、と。こういう考え方は、私たちにお金を使わせるための、ファストフードの戦略のひとつです。

あなたは1970年代から<シェ・パニーズ>でこういった価値観を実践していますね。どこから着想を得たのですか?

この価値観を、19歳の時に、フランスに留学したときに、まだ当時守られていた形で学べたのは幸運でした。人々は、子供たちのこと、テーブルに何を並べるかに気を配り、1日2度はマーケットに出かけていた。これはひとつの生き方です。私もそういう風に暮らしたかったから、その文化をアメリカに持ち帰りました。そうやって<シェ・パニーズ>で始めたことがユニークなことに思えたのは、ファストフード文化の中に生きているからだと気が付きました。でも何も珍しいことではないのです。私がやっていることは、人類が長い間、実践してきた食べ物との付き合い方、そして他者を思いやる方法なのです。

オーガニックで健康的な食事は贅沢だという見方がありますよね。中流階級や金持ちの人々だけの特権だと。それに対して、あなたのアプローチは子供たちに働きかけることですね。

そのとおりです。子供たちの感性に訴えるには、感性がまだオープンな小さい時から始めないといけません。ひとたび「早い・安い・簡単」のアイディアに毒されてしまったら、難しくなりますから。将来、私たちが暮らす地球の管理人となる子供たちに、正しい価値観を教えるべきです。世界中の学校に本物の食材を持ち込むのは重要なことです。学ぶべきは食材の栄養だけではありません。食事を通して学べる価値もあります。急いで食べれば、座ることは別に重要ではないと考えてしまう。学校は社会的正義を実践するべき場所ですから、子供たちには無料で食べさせるべきだと思います。そうすれば子供たちも、どうお金を使うべきなのか、違う方法で結論を出すと思います。新しい携帯や靴のような、彼らが今お金を使っている色々なものの代わりに、食材にお金を遣うことを覚えるかもしれない。私たちの考え方すべてを支配しているファストフード文化に麻痺してしまったら、自分の文化を維持するのは難しくなる。革新という概念に抗うのは難しいことですから。

あなたの教えのひとつが、食事は安価であってはならないということですね。

食材が安価なときは、誰かが負けているはずです。食事は安価にはなりえません。リーズナブルな価格は可能かもしれないけれど、安価にはなりえない。政府が支援しているか、国際的な食関連企業が作るものでないかぎり。大企業は誰にでも売ります。より多くの人々に買ってもらうことで、彼らは儲けを出しています。質ではなく量なのです。安価な食材を買うことに慣れてしまえば、ファーマーズ・マーケットで売られているものは何でも高く思えてしまう。そして、そういうことを考え過ぎないようにと教えられる。

自分を食べさせる方法を知れば、自分を解放することにもなりますね。自分自身の生活をよりコントロールできるようになる。

その通り。全てここに繋がってきます。テーブルにつくということが、寛容さと他人に耳を傾けることを教えてくれます。それは共有すること、毎日の暮らしの本当の喜びです。ただ自分の感性を取り戻すことが必要なのです。

「エディブル・スクールヤード」の試みについて教えてください。

最初は戦略的に重要な都市で「エディブル・スクールヤード」プログラムを始めようと思いました。でもそれを米国の多様な都市の文化の中で行うのは、複雑なことだと気づきました。だから今、私たちは世界中で効果を出しているやり方を集めて、運動を最大限まで広げようとしています。そうすれば来るべきときに、公立学校にカリキュラムを提供できる。モンテッソリやワードルフ、スタイナースクールなどの学校はもうこの考え方を実践しています。これらの学校が、未来に必要なことの基盤を作ってくれている。「エディブル・スクールヤード」は、子供たちの反応の早さを証明しました。子供たちはこの価値観を学びその大切さが分かるのです。学校では食料供給に対する基準を設けるべきです。学校は農家を支援して、農家は学校を支援する。この方法が、アメリカの人口の20パーセントにあたる学童児童の食問題を解決する手早い方法だと信じています。

私たちの食についての意識は進歩しているでしょうか?

ここ5年で、この運動は急速に広がりました。若い人たちはこの運動の切実さをよく理解しているし、未来の自分、そして自分の子供達の暮らしを心配している。自然とのつながりを求め、農業に参加しようとしている。これは素晴らしいこと。人々はひどく孤独で、繋がりに飢えています。人との繫がりと、自然との繫がりに。だから、その機会を与えられれば、すぐに恋に落ちるのです。そう、まさに恋に落ちるようなこと。だから教室を(この環境に)整えれば、子供たちは恋に落ちてるはずです。子供たちがその威力をみせてくれると思います。でもこれは切実な急務です。

あなたは日本と密接な関係をお持ちですね。

日本には、食を愛でる伝統と旬の考え方に、深い共感を覚えます。そしてそれが文化に根付いている。たとえ世界中のあちこちで起きているような、食にまつわる変化が日本でも起きているとしても。新米を祝うこと、食文化と密接に関わる贈り物の風習、食は尊いもので、人々を癒す存在という考え方のように。アメリカ人は、植物からビタミンを摂取できることを知りません。薬だけが病気を直せると思っています。日本の食文化が、国によって守られるようになればいいと思います。

多くの人が現状に気づくよりもずっと早く、あなたはこの大きな戦いを始めました。「エディブル・スクールヤード」が注目されてきましたが、それでも大変な戦いのように思えます。あなたの原動力はなんですか?

最高の仕事をしていると思っています。この運動を経験することに喜びを感じている若い人たちと交流できるのですから。けれど、これは本当はムーブメントではありません。オーガニックフードを食べることを「トレンド」と言う人がいますが、トレンドではありません、人間の生活の基盤なのです。ブラジルでもハーレムでも、「エディブル・スクールヤード」に行く時は毎回ワクワクします。子供たちはすぐに反応して、自分の考えを話せるようになります。まるで牢獄から解放されたように。それまでたった二色か三色で世界の全てを見ていて、周りの世界が見えていなかったみたいに。今まさに恐ろしいことが起こっています。だから急務なのです。11月にウォールストリート・ジャーナルが、私についての記事を書いてくれた時、この価値観が主流になりつつあるのを実感しました。人々は目を覚ましつつあるのです。

同時に、GMO(遺伝子組み換え作物)など、心配すべきことも多いようです。

(GMOを)買うのをやめるしかありません。企業は売りたいわけですから、買わなければ、どこか別のところに行くでしょう。でも企業は、他の場所で店を開くのです。だからこそ、国際的な議論を続けていかないといけないのです。

08/01/2014  

 

 
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We are made of the environment

坂本龍一 インタビュー

Interview: Yumiko Sakuma / Photos: Courtesy of moreTrees

今さら坂本龍一さんの音楽活動について、説明する必要はないだろう。「イエロー・マジック・オーケストラ」が70年代にブレイクして以来、ベルナルド・ベルトリッチ、オリバー・ストーン、大島渚など、国内外の多くの鬼才たちと、多くの領域にわたってコラボレーションしてきたかぎりなく多面的なアーティスト。2011年の東北大震災以来、エネルギー問題にまつわる活動も多い一方で、札幌芸術祭のゲスト・ディレクターを務めたり、鈴木邦男氏との対談集「愛国者の憂鬱」(金曜日)を発表したり、日本人として、また地球人としての精力的な活動には目を見張る。そんな坂本さんが、2007年に設立し、これまで森林保全に向けた植林活動などを行ってきた一般社団法人〈more Trees〉で、今、新しい挑戦をしているという。これまで破棄されてきたニホンジカの皮を有効活用して商品化しようというプロジェクト、エ『シカ』ルライフである。ニューヨークで、坂本さんに、このプロジェクトについて、環境主義と消費活動のバランスについて話を聞いた。

〈moreTrees〉でシカ革を使ったプロジェクト、エ「シカ」ルライフをやっていらっしゃいますが、どういう経緯で始まったんでしょうか?

〈moreTrees〉で、日本の森林を見ていて、現場のおじいちゃんたちからも話を聞くチャンスがあるのですが、鹿の害が日本中で問題になっている。天敵だったニホンオオカミが絶滅してしまったから増えてしまった。鹿の肉を食べる習慣も全国的にあるわけじゃないから、消費されないんですよ。植林した森に入って来て、特に冬は食べ物がないから樹の皮を剥いで食べてしまう。小さい苗木みたいなものも。里に降りて来て、農家の畑を荒らすようになって、環境省が毎年何千頭って数を決めて駆除をしていたんですけど、駆除した後の死体が使われないんですよね。食べられずに捨てられちゃう。それで、有効利用しなきゃ、と、3年ほど前に皮を商品開発できないかという話になったんです。ちょうど〈more trees design〉という間伐材を有効利用するために作られた組織があったので。さらに1年ほど前に、鹿の駆除費が国の方針で急に上がって、鹿を殺すことで受け取れる報奨金があがったんです。鹿の尻尾と耳を切って持って行くとお金が貰えるんですが、それで死体を埋める事もしないで打ち捨てて、耳と尻尾だけ持って行っちゃう人が増えた。ただ殺されるだけという鹿が多くなってしまっているのが現状です。

鹿の遺体が捨てられている状態から、どうやってファッションに使えるんじゃないか、という発想にたどり着いたのでしょうか?

まず食肉として応援していく、ということもやりました。それは鹿がとれる地元の仲間と繋がって、食肉をレストランでも食べられるようなワークショップをやったりしています。じゃあ剥いだ皮も何に使えるんだろうっていうことになって、何かプロダクトに落とし込もうと。

コストの問題があると思うのですが。

間伐材も、商品にするためには、森から降ろして、乾かして、生産して、という部分にコストがかかる。昔なら割り箸だったかもしれないけれど、今は、海外からもっと安いものが入ってきているから勝てません。だから、いいデザインの商品を作って、興味をもってもらい、「実はこれ間伐材なんですよ」というところから「何それ?」って気づいてもらっていくしかない。〈more trees design〉の商品開発を担当している部署でやっているのですが、やっぱり商品が売れないとそれが回らない。鹿の革も同じですが、これからです。作り手や消費者に知ってもらうことで徐々に広がっていけばいい。トップのデザイナーを巻き込んで、良いデザインの商品を作ろうと。始まったばかりですが。

これまで鹿の皮を使うというのはあまり聞かなかった気がします。

みなさんが思っているよりは使われているようです。日本では年間40万頭程度が捕獲、駆除されているのにもかかわらず、ニュージーランドや中国から輸入されています。国内ではサプライチェーンが確立されていなかったり、捕獲、駆除、剥皮の際に革に傷がついてしまうことがあって、供給面が安定する海外に頼ってきてしまったのかもしれません。

靴やバッグに使われる革がどこからきているのかということはなかなか考えないですよね。

そうなんです。たとえば高級ブランドが使うような柔らかい革を作るためには、子牛を熱湯に落とすような方法も使われている。そこまでして作られた柔らかい革なんて使いたくないじゃないですか。自分たちが使っているものがどこからきて、どうやって作られているか考えないと行けないし、人間の食物連鎖のシステムのなかから出てくるのが理想なんです。ただ、間伐材でも「環境を守ろうって言っているのに樹を切っちゃっていいんですか」という人もいるし、鹿の場合は純粋な環境主義の人からは「動物の革でしょ?」と思われるかもしれない。ただそれだけは処理できない。理想的には植林せずに自然だけでまわるならそのほうがいいけれど、残念ながら植林はしなきゃいけないし、ニホンオオカミという天敵を失った鹿がそれを荒らしたら、人間が天敵になるしかない。どこかでバランスの取りどころをきちんと見据えて、殺したらそれは最低限有効利用するという考え方が必要だと思う。イチかゼロかみたいな、消費主義か環境主義か、そういう線は引けないと思うんですよね。

坂本さんは、<moreTrees>もやっていらっしゃるし、原発問題にも取り組んでいらっしゃいますけど、地球人感覚はどこで身につけられたのでしょうか?

80年代に「蕩尽(とうじん)」、つまり消費し尽くすという言葉が流行りましたが、それくらい資本主義的な人間だったんです。91年に一番下の子どもが生まれて、そのあと老化が始まって、老眼の眼鏡を買ったんですね。その頃、1973年のローマクラブが出した「成長の限界」という本を読んだ。様々なデータを検証して、このままいくと地球環境が終わってしまう、資源が枯渇するって警告した本なんですけど、イントロに「人間というのは視野が狭い、特に未来に対する視野が非常に狭い」という趣旨のことが書いてあった。それまで遊ぶことしか考えずに、先のことなんて考えなかったけれど、息子ができて、あと20年育てないといけないことを考えたら、健康のことを考えるようになった。となると食い物とか、空気という環境について考えるようになって。自分の外にある物を日々自分の中に取り入れて、食べたり、飲んだり、息を吸ったりして生きているわけじゃないですか。自分も環境で作られているんですよ。それでだんだん変わったんです。

坂本さんが考えるユートピアはどんな場所ですか?

1999年にライフというオペラを作ったときに、いろんな著名人に「あなたにとっての救い(salvation)とはなんですか?」という質問をしました。ローリー・アンダーソン、ベルトリッチ、ダライラマ法王、柄谷行人にも聞きました。その答えを語っているビデオと音をオペラに入れ込んで使ったんですが、なかでもベルトリッチの答えが秀逸で「救いがないことが救いだ(There is no salvation is salvation)」と言ったんです。救いとかユートピアを語る必要のない世界が僕にはユートピアです。一介のミュージシャンが、社会に声をあげずに音楽だけに集中できる世界だったらいいなと思うことがあります。

07.07.2015