Day 200:ウィメンズ・マーチ2とその日の会話

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日記を始めて200目、時差ボケをやっつけるために友達が運営するジムにトレーニングに行き打ちのめされ、そのあと気を取り直してマーチに行った。路上も、地下鉄のホームもマーチに行くと思われる人でいっぱいだった。友人カップルと待ち合わせの場所に着いたときは、こんな中でどうやって人を見つければ良いのだと一瞬呆然としたが、意外にもあっさり会えて、他のグループとも合流して、20ブロック弱を歩いた。去年のワシントンDCのマーチよりかなり短くて、あっさり終わってしまった。

あれから1年経ったのか。どこに行っても、みんなが政治の話をしている。政治が日常のすべてに入り込んでいる。夜、出かけたジョニーの誕生日パーティで、女子のひとりがカルダシアン一家の話を始めた。男子のひとりが「バカバカしくて、見る気にならない」と言った。私、実は最近見ちゃったんだよね、と告白した。ある夜、ニュースにも、ドキュメンタリーにも、ディベートにも疲れ果て、バカバカしいものを見たくなったのだ。そしてカルダシアン家のリアリティ番組にすら、政治問題の端っこがあった。あと3年もあるのか。

男子のひとりが、「それにしてもブルース・ウェーバーとマリオ・テスティーノの件はいかがなものか」と意見を述べ始めた。だってファッション業界自体が、オールアメリカンなモデルを上半身裸にしてビルボードに飾ってたわけだろう? そういうカルチャーを推進してたじゃないか。おっしゃるとおりである。が、そのあと、彼の議論は、#metoo のおかげでアートが洗浄されて、おもしろいものができなくなる、という方向に移っていった。

#metoo 以降の世界において、大企業がギリギリの表現を避けるようになるだろうことは容易に予想がつく。だからといって、#metoo が起きないほうが良かった、とはいえない。表現が危機にさらされる、という意見の人に会うたびに思い出すのは映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のレイプシーンのエピソードだ。監督のベルナルド・ベルトリッチが、主演のマーロン・ブランドとともに、脚本になかったレイプシーンを撮ることに決め、19歳のマリア・シュナイダーにはそれを事前に知らせなかった(マーロン・ブランドが、撮影の直前に、シュナイダーに明かしたと、シュナイダーが言っている)。これに対してベルトリッチは、「I’ve been, in a way, horrible to Maria because I didn’t tell her what was going on, because I wanted her reaction as a girl, not as an actress」とコメントしている。itが、レイプではなくて、シーンに使われたバターのことだ、という説もある。シュナイダー自身はもう亡くなっているが、インタビューで、「マーロンとベルトリッチにレイプされた気持ちだった」と答えている。19歳の女の子の精神がアートという名のもとに犠牲になった。この話を思い出すと、心がきゅーっと痛む。そんなことをしなければ素晴らしいアートができないのなら、アートなんてくそくらえだ。と意見を述べると、もうひとりの男子がこう言った。「セクハラをせずに素晴らしい作品を出している監督もいくらでもいるよね」。くだんの男子は、それでも意見をまげずに、失われたアートがもったいないとかなんとか言っている。これ以上聞けん、とまわりを見回すと、グループはいつの間にか小さくなっていた。遠くから別の男子が手招きしている。「こっちにこいよ、カルダシアンの話でもしようぜ」

帰宅して、遅ればせながら「ブラックボックス」を読了した。読んでよかった。「私が本当に話したいのは『起こったこと』そのものではない。『どう起こらないようにするか』『起こってしまった場合、どうしたら助けを得ることができるのか』という未来の話である。それを話すために、あえて『過去に起こったこと』を話しているだけなのだ」。

備忘録:Last Tango In Parisが性的暴行について学生たちに教えられること(Richard Gunderman / The New European)

 

 

Yumiko Sakuma